なぜ無神論者は自然主義を重視するのか?神存在証明論への認識論的反論
導入:神存在証明論と無神論者の基本的な立場
このサイトでは、様々な神存在証明論の解説と、それに対する論理的な批判・反論を紹介しています。無神論や懐疑論の立場をとる方々が、なぜこれらの証明論に納得できないのか、その背景には単に信仰の欠如だけではない、哲学的なスタンスの違いがあることが多くあります。
特に、多くの無神論者が共有する基本的な世界観や知識に関する考え方として、「自然主義」という立場があります。本記事では、この自然主義がどのような考え方に基づいているのかを解説し、それが神存在証明論に対してどのような認識論的(知識に関する)反論をもたらすのかを論理的に検討します。
自然主義とは何か?:存在と知識の範囲
自然主義は、大きく分けて二つの側面を持っています。
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存在論的自然主義(Ontological Naturalism): この立場は、「存在するものは、自然的なもの、すなわち物理的な宇宙とその法則に支配されるものだけである」と主張します。超自然的な存在、例えば自然法則を超えた神や霊魂、魔法などは存在しない、あるいは少なくとも存在しないという前提に立ちます。
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認識論的自然主義(Epistemological Naturalism): この立場は、「知識を得るための正当な方法は、自然的な方法、すなわち科学的な探求(観察、実験、仮説形成と検証)や論理的な推論だけである」と主張します。直感、啓示、権威への無批判な依存、純粋な形而上学的思弁のみによる知識の獲得を認めない、あるいはその信頼性を疑問視します。
多くの無神論者にとって、特に神存在証明論を論じる際に重要なのは、この認識論的自然主義です。つまり、「私たちはどのようにして信頼できる知識を得るのか?」という問いに対し、「科学的方法と論理に基づいた探求によってのみ」と答える立場です。
神存在証明論が依拠する(自然主義から見て)問題のある前提
神存在証明論は、その種類によって様々な推論形式や前提を用います。しかし、認識論的自然主義の立場から見ると、これらの証明論がしばしば依拠する前提や推論方法に問題が見出されることがあります。
例えば、
- 存在論的証明: 「神は定義上『それより偉大なものが考えられない存在』であり、このような存在は思考の中にだけでなく、実在していなければならない」といった純粋な概念分析から神の存在を導こうとします。自然主義者から見れば、これは概念規定のみから実在を導こうとする試みであり、経験的な根拠を欠いています。
- 宇宙論的証明: 「全ての事象には原因がある。宇宙の始まりにも原因が必要であり、その最終的な原因こそが神である」といった推論を用います。自然主義者は、「全ての事象には原因がある」という法則が超自然的な領域にも適用されるのか、あるいは「第一原因」のような概念が自然法則の枠内でどのように理解されるべきか、といった点に疑問を呈します。経験科学は宇宙の始まりについて様々な仮説を提示しますが、それは自然的なプロセスに基づいた説明を追求します。
- 目的論的証明: 「宇宙や生物の精巧なデザインは、知的な設計者(神)の存在を示唆している」と主張します。自然主義者は、デザインに見えるものは進化や物理法則の結果として説明できると反論します。また、「設計者」という概念自体が、経験的に観測可能な「デザイン」からどのように論理的に導かれるのかを問い直します。
これらの証明論は、しばしば経験的に検証不可能な形而上学的な概念(例: 必要存在、第一原因、究極の原因、完璧な存在)や、自然的な経験からは直接導き出せない推論ステップを含んでいます。
認識論的自然主義からの具体的な批判のポイント
認識論的自然主義者は、知識を得るための「ルール」として、経験的な証拠と論理的な一貫性を強く求めます。この観点から神存在証明論を見た場合、以下のような批判点が生じます。
- 経験的証拠の欠如: 神存在証明論が提示する「証拠」は、多くの場合、経験科学で扱われるような観察可能で検証可能なものではありません。純粋な思弁や概念分析、あるいは解釈の余地が大きい宇宙の性質などに基づいています。認識論的自然主義者は、このようなタイプの証拠では、信頼できる知識、特に存在に関する知識は得られないと考えます。
- 検証可能性の欠如: 神存在証明論の結論(神の存在)は、自然主義的な方法(科学的観察や実験)によって直接的に検証することができません。「神が存在する」という主張が、どのような観測可能な帰結をもたらすのかが不明確な場合が多いのです。検証不可能な主張は、科学的な意味での「知識」の対象とはなりにくいと見なされます。
- 形而上学的な前提への依存: 証明論は、しばしば「全ての存在者には十分理由がある」「存在することは本質であるような存在者が可能である」といった、それ自体が経験的に確認できない形而上学的な前提に強く依存しています。認識論的自然主義者は、これらの前提の妥当性自体を問い、その上に築かれた推論の信頼性を疑問視します。
要するに、認識論的自然主義の立場では、神存在証明論は、信頼できる知識を獲得するための「自然的な手続き」に乗っていない、あるいはその手続きでは到達できない領域に関する議論であると見なされます。
自然主義と神存在証明論の根本的な衝突点
自然主義は、私たちが住む世界を、自然法則によって統一的に理解できる「閉じた」システムであると見なす傾向があります。この世界観においては、超自然的な存在や出来事は、原理的に探求の対象外、あるいは存在しないものとして扱われます。
一方、多くの神存在証明論は、この自然的なシステムの外部や基盤に、自然法則を超える「神」を位置づけようとします。これは自然主義から見れば、「閉じている」はずの世界観を「開く」行為であり、知識の源泉を自然的なもの以外にも求めることになります。
この根本的な世界観、特に「信頼できる知識はどこから来るのか」という認識論的なスタンスの違いこそが、自然主義的な無神論者が神存在証明論に説得力を感じない最も大きな理由の一つと言えるでしょう。彼らにとって、神存在証明論は、彼らが採用する知識獲得の「ルール」の外で行われている議論なのです。
結論:なぜ自然主義が無神論者にとって重要なのか
無神論者が自然主義を重視するのは、それが現代科学と整合性が高く、論理的な整合性も比較的保ちやすい、堅固な知識体系の基盤を提供すると考えるからです。この立場からは、神存在証明論が提示する推論や証拠は、認識論的な基準を満たさないため、神の存在を示す信頼できる根拠とはなり得ません。
神存在証明論を批判的に検討する際には、このような認識論的なスタンス、すなわち「どのようにして私たちは信頼できる知識を得るのか?」という問いに対する考え方の違いが、議論の根底にあることを理解しておくことが重要です。自然主義は、神の非存在を積極的に「証明」するものではありませんが、神の存在を主張する側の「証明」を評価する上での、無神論者にとって重要な基準を提供する哲学的な立場なのです。