確率論的思考は神の存在確率を上げうるか?論理的限界と批判
導入:確率論的アプローチとは何か
これまで、本サイトでは宇宙論的証明、存在論的証明、目的論的証明など、様々な形式の神存在証明論とその論理的な批判を解説してきました。これらの証明は通常、「もし特定の前提が真ならば、論理的に神は存在するはずだ」という形式をとります。しかし、神の存在という問いに対して、論理的な「証明」ではなく、確率的な「推論」によってアプローチする試みも存在します。これは、特定の証拠(例えば宇宙の微調整、奇跡、宗教的経験など)が、神が存在するという仮説の確率をどの程度高めるかを評価しようとするものです。
無神論者や懐疑論者にとって、このような確率論的な議論は、従来の論理的な証明論と同様に、その構造と妥当性を厳密に評価する対象となります。感情や信仰ではなく、あくまで数学的・論理的な推論として成り立つのかどうかを検討することが重要です。
神存在への確率論的アプローチ:ベイズ確率論を中心に
神存在を確率的に論じるアプローチの中でも、特に哲学や神学の文脈で言及されることが多いのがベイズ確率論を用いた推論です。ベイズ確率論では、ある仮説(この場合は「神が存在する」という仮説)の確率を、新しい証拠が得られるたびに更新していきます。
その中心となるのが「ベイズの定理」です。ベイズの定理は以下のように表現されます。
P(H|E) = [P(E|H) * P(H)] / P(E)
ここで、 * P(H) は「仮説 H が真である事前確率」(証拠 E を得る前の仮説 H の確率) * P(E|H) は「仮説 H が真である場合に証拠 E が得られる条件付き確率」(尤度) * P(E) は「証拠 E が得られる確率」 * P(H|E) は「証拠 E が得られた後の仮説 H の事後確率」
この定理を神存在の議論に適用する場合、 * H を「神が存在する」という仮説 * E を「特定の証拠」(例:宇宙の存在、物理定数の微調整、生物の複雑性など)
と置き換えて考えます。つまり、P(神が存在する|証拠) = [P(証拠|神が存在する) * P(神が存在する)] / P(証拠) となります。
この枠組みを使う論者は、特定の証拠 E(例えば宇宙の微調整)が得られたことが、神が存在するという仮説(H)の確率 P(H) を、証拠を得る前の確率 P(H) から、得た後の確率 P(H|E) へと高めると主張します。
無神論からの論理的批判と限界
しかし、この確率論的なアプローチ、特にベイズの定理を神存在の議論に適用することには、無神論や懐疑論の立場から多くの論理的な問題点や限界が指摘されています。
1. 「事前確率 P(H)」の主観性と設定の困難さ
ベイズの定理を適用するためには、まず「神が存在する」という仮説の事前確率 P(H) を設定する必要があります。しかし、神が存在するかどうかという問いに対して、証拠を得る前の客観的な確率など存在するのでしょうか?
これは哲学的な信念や直感に強く依存せざるを得ない極めて主観的な値となります。「神が存在する可能性は最初からゼロではない」と考える人もいれば、「証拠がない以上、可能性は極めて低いと考えるべきだ」という人もいるでしょう。どのような値を設定しても、その根拠は論理的な推論ではなく、個人的な前提に依拠します。確率計算の出発点が主観的である以上、その結果として得られる事後確率も客観的な妥当性を持つとは言えません。
2. 「尤度 P(E|H)」の評価と神概念の曖昧さ
「もし神が存在するならば、特定の証拠 E が得られる確率 P(E|H)」、すなわち尤度を評価することも非常に困難です。例えば、宇宙が微調整されているという「証拠」E があるとします。神が存在するならば、神は宇宙を創造する際に微調整を行うと考えるべきか?それとも、神の意図は人間には測り知れないため、どういう宇宙を創造するかは分からないと考えるべきか?これは、想定する「神」がどのような性質(全能、全知、全善など)を持つか、どのような意図で宇宙を創造したかをどう解釈するかに依存します。
もし神の性質や意図について具体的な前提を置くならば、それはすでに特定の神概念を受け入れていることになり、証明ではなく前提に基づく推論になってしまいます。神概念が曖昧であるほど、P(E|H) の評価は不可能になります。
3. 「証拠 E」の解釈問題
確率論的アプローチで「証拠」とされる事象(宇宙の微調整、生命の発生、特定の歴史上の出来事など)自体が、本当に神の存在を強く示唆するのかどうかも論点となります。例えば、宇宙の微調整は神の存在確率を高めるという主張に対して、多宇宙論や偶然による説明、あるいはまだ未知の物理法則による説明の可能性を排除できません。
P(E) は、仮説 H が真である場合(神が存在する場合)と、仮説 H が偽である場合(神が存在しない場合、例えば自然主義的な世界観)の両方で証拠 E が得られる確率を含みます。もし証拠 E が、神が存在しないという仮説の下でもそれなりに高い確率で説明できる、あるいは他の代替仮説(自然主義的な説明など)の下でより高い確率で説明できるのであれば、証拠 E は必ずしも神の存在確率を大きく高めるものとは言えません。
4. 確率が高まることと「存在」の証明
仮にこれらの困難を乗り越えて、特定の証拠によって神が存在するという仮説の事後確率が「高まった」と計算できたとします。しかし、確率が高まることと、その存在が「証明された」ことの間には大きな隔たりがあります。統計的な推論は、あくまで不確実性の中での蓋然性を評価するものであり、論理的な必然性を示すものではありません。
例えば、ある病気の検査で陽性が出た場合、その病気である確率が大幅に高まったとしても、それは「病気である」という確定的な証明ではありません。神存在についても同様に、たとえ確率計算によって「神が存在する可能性が少し上がったかもしれない」という結論になったとしても、それは無神論者が求めるような、確固たる論理的あるいは経験的な「証明」とは根本的に異なります。低い確率であっても完全にゼロでないことをもって「存在する可能性がある」と主張することは可能ですが、それは証明責任の観点からも議論の対象となります。
結論:確率論的アプローチは神証明たりうるか?
確率論的思考を用いた神存在へのアプローチは、形式論理的な証明論とは異なる視点を提供します。特に、ベイズ確率論の枠組みは、情報が更新されるにつれて信念の確からしさを調整するという、推論のモデルとしては興味深いものです。
しかし、神存在という問いにこれを適用する場合、必須となる事前確率や尤度の設定が極めて主観的・恣意的にならざるを得ないという、致命的な問題に直面します。また、「証拠」とされる事象の解釈や、ベイズの定理がそもそも形而上学的な命題に適用可能かどうかも議論の余地があります。
これらの論理的な限界を踏まえると、確率論的アプローチは、神が存在するという仮説の客観的で説得力のある「証明」を提供するものではないと結論付けられます。むしろ、人間の認識や推論の限界、そして神存在という問いが、経験科学や数学的な確率論の直接的な適用範囲外にあることを示す事例として理解するのが適切でしょう。無神論者や懐疑論者にとっては、このようなアプローチが持つ論理的な弱点を正確に理解し、その限界を指摘することが重要であると言えます。