無神論者のための神証明入門

「可能性」と「必然性」は神を証明するか?様相概念の論理的評価と無神論からの批判

Tags: 可能性, 必然性, 様相論理, 神存在証明, 無神論, 哲学, 論理学, 存在論的証明

はじめに:神存在証明論における「可能性」と「必然性」

神存在証明論の世界には、多様な論証が存在します。宇宙の始まりに原因を求める「宇宙論的証明」、世界の秩序やデザインに設計者を見る「目的論的証明」など、それぞれが異なる切り口から神の存在を示そうと試みます。しかし、これらの証明論の中で、特に抽象的かつ論理的な議論の中心となる概念があります。それが「可能性 (possibility)」と「必然性 (necessity)」です。

これらの様相概念は、特にアンセルムス以来の「存在論的証明」や、現代の哲学者アルヴィン・プランティンガによって洗練された「様相存在論的証明」において、論証の根幹をなしています。これらの証明論は、「神は存在する可能性がある」という前提から出発し、論理的な推論によって「神は必然的に存在する」という結論を導こうとします。

無神論や懐疑論の立場から見ると、これらの証明論が依拠する「可能性」や「必然性」といった概念そのものに、論理的な落とし穴や前提への疑問が多く含まれているように見えます。本稿では、神存在証明論における様相概念の使われ方を概観し、それらがどのような論理的問題を抱えているのか、そして無神論や現代哲学からの批判はどのようなものかを掘り下げていきます。

様相概念の基本的な考え方

哲学や論理学において、「様相 (modality)」とは、命題の真偽が「どのように」真または偽であるかを示す概念です。最も基本的な様相概念として、「可能であること (possibility)」、「必然であること (necessity)」、「偶然であること (contingency)」、「不可能であること (impossibility)」などがあります。

神存在証明論、特に存在論的証明は、「神は必然的に存在する存在である」と定義し、その定義から存在そのものを導き出そうとします。つまり、「もし神が存在する可能性があるならば、神は必然的に存在する」という形式をとることが多いのです。ここで、「可能」から「必然」への飛躍が論理的な鍵となります。

神存在証明論における様相概念の利用例

様相概念が顕著に用いられるのは、主に以下のような証明論です。

  1. 存在論的証明 (Ontological Argument): アンセルムスは「それより偉大であると考えることが不可能なもの」として神を定義し、もしそのような存在が思考の中にのみ存在するならば、思考の外にも存在する方がより偉大であると考えられ、定義に矛盾すると論じました。これは、「最も偉大な存在は可能である」という前提から、その存在が「必然的に」存在しなければならないという推論を含んでいます。カントは、存在は述語ではないため、概念の定義から存在を導き出すことはできないと批判しました。
  2. 様相存在論的証明 (Modal Ontological Argument): プランティンガなど現代の哲学者によって展開された形式です。可能世界意味論などを援用し、より厳密な様相論理の枠組みの中で構築されます。例えば、「最大級の偉大さ(すべての可能世界で存在する、といった属性を含む)」を持つ存在が可能であるならば、そのような存在は必然的に存在する、と論じます。これは形式的には妥当な推論(論理的な形式が正しい)に見えますが、その前提(「最大級の偉大さを持つ存在が可能である」)が真であるかどうかが問題となります。
  3. 宇宙論的証明の一部 (Specific versions of Cosmological Argument): 宇宙の存在が偶然的であることから出発し、その原因や基盤として「必然的存在者」が必要であると論じる形式があります。この「必然的存在者」という概念自体が様相的な性質を持ちます。

これらの証明論は、神を単なる「存在する何か」としてではなく、「必然的に存在する何か」として捉えることで、その存在を不動のものにしようと試みていると言えます。

様相概念に基づく神存在証明論への論理的反論

無神論や懐疑論の立場、あるいは現代の論理学・哲学の視点から、様相概念を用いた神存在証明論にはいくつかの重要な反論があります。

  1. 「可能」から「必然」への飛躍の根拠: 存在論的証明や様相存在論的証明の核心は、「神のような存在が可能であるならば、必然的に存在する」という推論です。しかし、「可能である」ことが、なぜ直ちに「必然である」ことを含意するのか、その論理的な跳躍に説得力がない、あるいは前提に結論が織り込まれているのではないか、という批判があります。単に概念的に矛盾しない「可能」な存在者が、現実世界で「必然的」に存在する保証はありません。
  2. 「必然的存在者」という概念自体の妥当性: 「必然的に存在する存在者」という概念は、それ自体が有意味であるか、あるいは思考可能であるかという問題があります。カントの批判のように、「存在」はものの性質や述語ではなく、概念が対象を持つことに関わるため、「必然的に存在する」というフレーズは、実質的な内容を持たない、空虚な概念操作に過ぎないという見方があります。ある性質を持つものが存在するかどうかは、その性質から論理的に導けるものではなく、経験的な探求や他の種類の説明が必要になるはずです。
  3. 様相概念が思考の産物であることの限界: 「可能」や「必然」といった様相概念は、主に私たちの論理や思考の枠組みの中で定義・使用されるものです。これらが現実世界の、あるいは形而上学的な存在の性質を正確に捉えているという保証はありません。私たちの考える「可能世界」が、実際の存在論的な可能性と一致するとは限りません。証明論は、人間の概念操作が現実世界の存在者に直接結びつくと仮定しているように見えますが、これは証明なしに受け入れるには困難な前提です。
  4. 前提「神は可能である」の根拠の欠如: 様相存在論的証明は「最大級の偉大さを持つ存在が可能である」という前提を置きます。しかし、この前提が真であることの独立した根拠が示されません。無神論者にとっては、「そのような存在は不可能である(概念的に矛盾する、あるいは論理的に思考しえない)」と主張する方が、むしろ自然であるかもしれません。証明論は、証明されるべき結論(神の存在)に近い前提を置いているため、真の証明になっていない、という批判も成り立ちます。
  5. 様相論理の形式的妥当性と実質的妥当性の違い: 様相論理の体系の中で、ある論証が形式的に妥当であるとしても、その論証が現実世界について何か真実を語っているとは限りません。論理システム内の推論規則に従っていることと、そのシステムが記述しようとする対象(この場合は神の存在)の実質的な性質や存在を保証することは別問題です。様相存在論的証明は、形式論理の演習としては興味深いかもしれませんが、存在の証明としては不十分である、と多くの無神論者や哲学者は考えます。

現代哲学・論理学からの視点

現代の様相論理や形而上学の議論は非常に複雑ですが、神存在証明論における様相概念の利用に対しては、依然として強い懐疑的な見方が支配的です。可能世界意味論のような現代的な枠組みを用いても、存在論的証明が抱える根本的な問題、すなわち「概念の内部」から「現実世界の外」への橋渡しができない点は変わりません。

哲学者たちは、「可能性」や「必然性」といった言葉が、異なる文脈で様々な意味を持ちうることを指摘します(論理的可能性、物理的可能性、形而上学的可能性など)。神存在証明論がどの意味での様相概念を使っているのかを明確にし、それが証明に適切に利用されているかを問うことも、重要な批判の視点となります。

まとめ:様相概念による神証明の限界

「可能性」や「必然性」といった様相概念を用いた神存在証明論は、論理的な厳密さを持つかのように見えますが、その実、概念定義や前提に多くの疑問点を含んでいます。特に、概念的な「可能」から現実的な「必然」への飛躍、そして「必然的存在者」という概念自体の妥当性は、無神論や懐疑論の立場から論理的に強く批判される点です。

これらの証明論は、論理的なパズルとしては興味深い一方で、神が実際に存在するという確固たる証拠や説得力のある根拠を提示するものとは言えません。むしろ、これらの証明論が依拠する様相概念を深く分析することは、神存在仮説が抱える概念的な問題点や、証明論の論理的な限界を明らかにする上で非常に有用であると言えるでしょう。論理的思考を重視する無神論者にとって、神存在証明論が依拠する様相概念の扱い方を理解することは、議論の核心を捉える上で重要な一歩となります。