哲学者が「存在」をどう論じてきたか:神存在証明論における「存在」概念の落とし穴
神存在証明論における「存在」という言葉の重要性
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神存在証明論を議論する際に、最も基本的な、そして同時に最も厄介な言葉の一つが「存在」です。「神は存在する」という主張が、証明論の中心にあるからです。しかし、哲学の歴史を紐解くと、「存在」という言葉は、私たちが普段何気なく使っているよりもはるかに複雑で、多義的な概念であることが分かります。
多くの神存在証明論、特に存在論的証明や必要存在論的証明は、「存在」という概念の特定の理解に強く依存しています。そのため、これらの証明論を論理的に評価するためには、「存在」そのものが哲学的にどのように論じられてきたのか、そしてその概念が神存在証明論においてどのように扱われているのかを理解することが不可欠です。
この記事では、哲学史における「存在」概念の主要な変遷を概観し、それが神存在証明論でどのように用いられ、どのような論理的な問題点や批判が存在するのかを解説します。
哲学史における「存在」概念の多様な捉え方
「存在」という問いは、哲学が始まって以来、常に中心的なテーマの一つでした。
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古代哲学:
- パルメニデスは「存在するものは存在し、存在しないものは存在しない」と述べ、感覚的な変化を否定し、真の実在は唯一不動であると主張しました。ここでは「存在」が絶対的な、非生成・不滅の何かとして捉えられています。
- プラトンは、個々の事物(存在するもの)の背後にある、より真なる存在としてのイデアを考えました。
- アリストテレスは、「存在するもの」には多様な意味があることを指摘しました(実体、量、質、関係など)。特に、事物の基盤となる実体(ウーシア)を重視しました。存在が単一の意味を持つのではなく、文脈によって異なる意味を持つという視点は重要です。
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中世哲学:
- 神の存在証明が盛んに議論される中で、「存在」と「本質(Essentia)」の関係が深く探求されました。トマス・アクィナスらは、被造物においては本質と存在は区別されるが、神においては本質そのものが存在である(神は本質的に存在する)と考えました。これは、神を他の被造物とは異なる特別な存在として位置づける試みでした。
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近世哲学:
- デカルトは「我思う、故に我あり (Cogito ergo sum)」と述べ、自己意識の存在を疑いえない出発点としました。ここでの「存在」は主観的な確実性と結びついています。
- ライプニッツは、可能世界という概念を用いて、現実世界は可能な多くの世界の中で最も良い世界であると考えました。神は可能な限り多くのものが存在するように世界を創造した、と論じました。
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カントの批判:
- イマヌエル・カントは、『純粋理性批判』において、神存在証明論、特に存在論的証明に対する決定的な批判を展開しました。カントの最も重要な指摘の一つは、「存在 (Existenz)」は実在的な述語(Prädikat)ではない、というものです。
- 実在的な述語とは、主語となる対象の概念に性質を付け加えるものです。例えば、「バラは赤い」という文で、「赤い」はバラという対象の性質を付け加える述語です。
- しかし、カントによれば、「存在する」はこのような述語ではありません。例えば、「100ターレル硬貨」という概念を考えたときに、その概念内容(硬貨である、100ターテルの価値があるなど)は、「それが実際に存在する」場合と「それが概念として考えられるだけ」の場合とで何も変わりません。概念に「存在」という述語を付け加えても、その概念が持つ性質が増えるわけではないのです。
- カントは、「存在する」とは、ある概念に対応する対象が実際に与えられる(経験される)ことを意味すると考えました。これは概念自体の属性ではなく、概念と現実との関係性を示すものだということです。
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現代哲学・論理学:
- ゴットロープ・フレーゲやバートランド・ラッセルといった現代論理学の祖は、カントの洞察をさらに発展させました。彼らは、論理学における「存在」は、量化子
∃x
(「あるxが存在する」または「少なくとも一つのxが存在する」)として表現されるべきだと主張しました。 - 例えば、「賢い人が存在する」という主張は、「賢い」という性質を持つ何かが存在するという主張であり、これは
∃x (Person(x) ∧ Wise(x))
のように表現されます。これは「存在」が対象の性質ではなく、ある性質を満たす対象が少なくとも一つある、という述語(この場合はWise(x))の適用範囲に関する主張です。 - この現代的な論理学的視点からも、「存在」を他の属性(賢い、強い、善いなど)と同じように扱って、概念に付け加えたり減らしたりできる性質だと考えるのは誤りである、とされます。
- ゴットロープ・フレーゲやバートランド・ラッセルといった現代論理学の祖は、カントの洞察をさらに発展させました。彼らは、論理学における「存在」は、量化子
神存在証明論における「存在」の特別な扱いと批判
このような哲学史における「存在」概念の変遷、特にカント以降の理解を踏まえると、多くの神存在証明論が抱える問題点が見えてきます。
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存在論的証明:
- アンセルムスによる存在論的証明は、「神とは、それより偉大であると考えられるものがない存在である」と定義し、もしそのような存在が単に思考の中にしか存在しないとすれば、思考と実在の両方に存在する方がより偉大であるため、定義から神は実在しなければならない、と論じます。
- この証明は、「存在」を偉大さや完璧さの一つとして、他の属性(全知、全能など)と同列に扱っている点に特徴があります。つまり、「存在すること」を「存在しないこと」よりも優れた属性だと見なしているのです。
- しかし、前述のカントやフレーゲ、ラッセルらの批判によれば、「存在」はこのような意味での属性ではありません。概念的に「最も偉大な存在」を考えることは可能ですが、その概念に「存在する」という述語を付け加えたからといって、概念内容そのものが変わり、それゆえ現実世界にその概念に対応する対象が存在することが保証されるわけではないのです。概念の現実化は、概念内容からは導き出せません。
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必要存在論的証明:
- 様相論理学を用いて形式化されることのある必要存在論的証明は、「神は可能な世界のすべてにおいて存在する必然的な存在者である」と定義し、神が存在することが可能であるならば、神は存在する、と論じます。
- ここでは単なる「存在」ではなく、「必然的な存在」という概念が中心となります。様相論理学における「必然性」や「可能性」といった概念を用いて、形式的な論証が行われます。
- これに対する批判の一つは、たとえ論理的に「必然的な存在者」という概念が無矛盾であり、そのような存在者が「可能である」という前提を受け入れたとしても、それが現実世界における神の存在を保証するわけではない、という点です。様相論理学的な可能性は、必ずしも現実世界での実在を意味するわけではありません。また、「必然的な存在者」という概念自体が、首尾一貫しているか、意味を持っているかといった点も議論の対象となります。
他の宇宙論的証明や目的論的証明も、「原因」や「設計者」として「存在する」何かを想定しています。これらの証明論では、存在論的証明ほど直接的に「存在」そのものの概念が論証の中心になるわけではありませんが、それでも、これらの証明が成功したとして導き出される「原因」や「設計者」が「存在する」ことの意味を、哲学的な「存在」理解に基づいて検討する必要があります。
まとめ:神存在証明論を評価する上での「存在」概念の重要性
哲学史は、「存在」という言葉が決して単純なものではなく、どのように捉えるかによって議論が大きく変わることを示しています。特に、カント以降の「存在は実在的な述語ではない」という洞察や、現代論理学における存在の量化子としての理解は、神存在証明論、とりわけ存在論的証明に対して極めて強力な批判を提供します。
神存在証明論を検討する際には、そこで「存在」という言葉がどのように使われているのか、それが哲学史における「存在」概念の多様な理解のうち、どの理解に基づいているのか、そしてその概念の使い方が論理的・哲学的に妥当なのか、といった点を深く吟味する必要があります。
無神論や懐疑論の立場から神存在証明論を評価する際には、これらの哲学的な「存在」を巡る議論の知識が、証明論の論理的な弱点を見抜く上で大きな助けとなるでしょう。「神は存在する」という結論だけを見るのではなく、その結論に至る論証の過程で用いられている「存在」という概念そのものを、批判的に分析することが重要なのです。