無神論者のための神証明入門

パスカルの賭けは神証明たりうるか?論理的な問題点と無神論からの批判

Tags: パスカルの賭け, 神存在証明, 無神論, 論理的批判, 哲学, 期待値

はじめに:パスカルの賭けとは何か?

無神論や懐疑論の立場をとる方々にとって、神の存在に関する議論は多くの場合、哲学的な証明や科学的な証拠の欠如に焦点が当てられます。しかし、神の存在を巡る議論の中には、「パスカルの賭け」と呼ばれる少し変わったアプローチがあります。これは、フランスの哲学者・数学者ブレーズ・パスカルがその著書『パンセ』で提示した考え方で、神の存在そのものを直接証明するのではなく、「神を信じるか、信じないか」という選択がもたらす結果から、信じる方が合理的な選択であると主張するものです。

パスカルは、神の存在は理性によっては証明も否定もできない不可知なものであるとしました。その上で、人生における最大の「賭け」として、神を信じることの損得を考慮すべきだと論じました。無神論者の皆様にとっては、このようなプラグマティズム(実用主義)的な議論が、理性や論理に基づかないものとして、かえって興味深い批判対象となるかもしれません。

本記事では、このパスカルの賭けの論理構造を解説し、それが無神論的視点からどのような論理的な問題点を抱えているのかを詳細に検討していきます。神の存在を信じることの「利益」を計算するこの試みが、なぜ多くの哲学者や論理学者、そして特に無神論者にとって説得力を持たないのかを探求します。

パスカルの賭けの基本的な論理構造

パスカルの賭けは、以下のような構造で提示されます。

  1. 前提: 神が存在するかしないかは、理性では決定できない(確率は50:50ではないかもしれないが、決定的な証拠はない)。
  2. 選択: 人間は「神を信じる」か「神を信じない」かのいずれかを選ばなければならない。中立の立場はない。
  3. 可能性のある結果:
    • あなたが神を信じ、神が存在する場合:無限の報酬(天国、永遠の至福など)を得る。
    • あなたが神を信じ、神が存在しない場合:有限の損失(信仰のための時間や労力、現世での快楽の放棄など)を被る。
    • あなたが神を信じず、神が存在する場合:無限の損失(地獄、永遠の苦痛など)を被る。
    • あなたが神を信じず、神が存在しない場合:有限の利益(信仰のための労力を費やさない、現世での自由など)を得る。
  4. 結論: 上記の結果を考慮すると、神を信じることによる潜在的な無限の報酬は、信じないことによる潜在的な無限の損失と比較して、いかなる有限の損失をも圧倒します。したがって、合理的な人間は神を信じるべきである。

これは一種の期待値計算と見なすことができます。期待値 = (結果1の価値 × 結果1の確率) + (結果2の価値 × 結果2の確率)+ ... と考えた場合、神を信じる選択の期待値には「無限大 × 神が存在する確率」という項が含まれます。たとえ神が存在する確率が非常に小さいとしても、それに無限大の価値が掛け合わされるため、期待値は無限大になると主張されます(ただし、神が存在しない確率が0でない限り、信じない選択の期待値には「無限大 × 神が存在する確率」というマイナスの項が含まれることになります)。

無神論的視点からの論理的な批判と問題点

パスカルの賭けは一見もっともらしく聞こえるかもしれませんが、無神論や論理的思考を重んじる立場からは、いくつかの深刻な問題点が指摘されています。

1. 神の存在が単一の特定の神に限定されている問題(「多神教」への批判)

パスカルの議論は、まるで選ぶべき神がキリスト教の神(あるいは無限の報酬と無限の罰を与える特定の唯一神)ただ一人であるかのように前提しています。しかし、世の中には様々な宗教があり、それぞれ異なる神々、異なる報酬や罰の概念を持っています。

例えば、ある宗教の神は信仰者に無限の幸福を与えるかもしれませんが、別の宗教の神は特定の儀式を行う者にのみ報酬を与え、信仰の表明だけでは意味がないかもしれません。あるいは、信仰しないことに対する罰が存在しない神もいるかもしれません。

もし多数の異なる神々が存在する可能性があるとすれば、パスカルの賭けは破綻します。例えば、あなたがパスカルの提示する神Aを信じたとしても、もし実際に存在するのが全く異なる性質を持つ神Bだった場合、神Aへの信仰は何の報酬ももたらさず、むしろ神Bを怒らせる結果になるかもしれません。どの神に「賭ける」のが最も期待値が高いのか、という新たな、そしてより複雑な問題が生じます。無限の報酬を約束する神が複数存在するならば、矛盾する教義を持つそれらの神々の中からどれを選べばよいのでしょうか?パスカルの賭けは、この「どの神に賭けるか」という問題を解決できません。

2. 「信じる」ことは意志で制御できるのか?

パスカルの賭けは、「神を信じる」という行為を選択できる前提に立っています。しかし、多くの哲学者や心理学者は、信念は証拠や理由に基づいて形成されるものであり、単に利益のために「信じよう」と決意して持てるものではないと主張します。人は特定の命題が真であると納得したときに初めてそれを信じます。

「神を信じる方が得だから信じよう」と考えることはできても、それによって本心から神の存在を確信するようになるわけではありません。もし神が全知であるならば、その動機(罰を恐れる、報酬を得たいというエゴイスティックな動機)を見抜くでしょう。そのような動機に基づいた「信仰」に対して、本当に無限の報酬が与えられると考えるのは不合理かもしれません。真の信仰とは、心の底からの確信や信頼に基づくと考えられるからです。

3. 期待値計算の前提に関する問題

4. 倫理的な問題点

パスカルの賭けは、信仰を自己利益のための計算に基づいて推奨します。これは、真実の追求や道徳的な善といった価値よりも、個人的な報酬と罰を回避することを優先する考え方です。多くの宗教が説く、神への愛や畏敬、あるいは真理への献身といった本来の信仰の動機とはかけ離れており、信仰の価値を冒涜していると批判されることがあります。

結論:理性的な無神論者にとってのパスカルの賭け

パスカルの賭けは、神の存在そのものを論理的に証明するものではなく、あくまで神を信じるという行為の合理性を、結果としての損得から主張するものです。しかし、上記で見てきたように、この議論は「どの神に賭けるか」「信じることは選択できるか」「期待値計算の前提は妥当か」「信仰の真の動機とは何か」といった、多くの深刻な論理的・概念的な問題点を抱えています。

特に、論理的思考を重視する無神論者にとって、特定の唯一神を暗黙に前提している点や、「信じる」という行為の性質を無視している点は、その妥当性を根本から揺るがします。パスカルの賭けは、神の非存在を証明するものではありませんが、同時に神の存在を信じるべき理由を論理的に、あるいは合理的な選択として提供するものでもないと言えます。

むしろ、様々な可能性のある神々、信仰の強制不可能性、そして信仰の本来的な意味合いを考慮に入れれば、パスカルの賭けは、神の存在について理性を働かせることの困難さを示す例としては興味深いかもしれませんが、神を信じるための説得力のある根拠とはなりえません。無神論者にとっては、神の存在を巡る議論が、このようなプラグマティズムではなく、より厳密な論理的・証拠に基づく探求であるべきだという確信を深める材料となるでしょう。