神は定義から導けるか?存在論的証明の解説とカント、現代哲学からの批判
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私たちは、長年無神論や懐疑論の立場を取られている方々に向けて、神存在証明論がどのようなものであり、それに対して現代の哲学や科学がどのような論理的な評価を下しているのかを解説しています。感情論ではなく、客観的かつ論理的な議論を通じて、共にこのテーマを探求していきましょう。
今回は、神存在証明の中でも特に哲学的で、古くから多くの議論を巻き起こしてきた存在論的証明に焦点を当てます。
存在論的証明とは何か
存在論的証明は、他の神存在証明(例えば、世界に原因があることから第一原因としての神を導く宇宙論的証明や、世界の秩序や複雑さから設計者としての神を導く目的論的証明など)とは異なり、世界の具体的な経験的な事実に依拠しません。
存在論的証明は、「神」という概念そのもの、あるいは神の定義から、神の存在を論理的に導き出そうとする試みです。つまり、「神とは何か」という思考や定義の分析だけで、神が存在することを証明しようとする、非常にユニークな証明論と言えます。
これは一見すると、現実の世界を見ることなく、頭の中で考えるだけで世界の最も根源的な問いの一つに答えを出そうとしているかのようです。そのため、その説得力や論理的な妥当性については、歴史上、多くの哲学者や思想家によって激しい議論が交わされてきました。
アンセルムスの存在論的証明
存在論的証明の最も古典的で有名な定式化は、11世紀の神学者であるカンタベリーのアンセルムスによるものです。彼は、神を「それより大きなものを想像することのできないもの(that than which nothing greater can be thought)」と定義しました。
彼の議論は概ね以下のようなステップで進みます。
- 私たちは「それより大きなものを想像することのできないもの」という概念を理解することができる。
- 「それより大きなものを想像することのできないもの」は、私たちの知性の中に存在する(概念として思考できる)。
- もし「それより大きなものを想像することのできないもの」が、知性の中に存在するだけでなく、現実にも存在するとしたら、それは知性の中にのみ存在するよりも大きいと言える。
- なぜなら、知性の中にのみ存在する概念よりも、知性の中にも現実にも存在するもののほうが、より大きい(より完全である)と考えられるからである。
- したがって、「それより大きなものを想像することのできないもの」がもし現実には存在しないと仮定すると、それは「知性の中に存在するだけで、現実には存在しないもの」ということになる。
- しかし、これはステップ3と4の考え方に反する。なぜなら、「それより大きなものを想像することのできないもの」は、もし現実にも存在すれば、より大きいものになり得るのに、現実には存在しないことになり、結局「それより大きなものを想像することのできないもの」よりも大きなものを想像できてしまうことになるからである。これは矛盾である。
- したがって、「それより大きなものを想像することのできないもの」は、知性の中に存在するだけでなく、現実にも存在するに違いない。
- そして、この「それより大きなものを想像することのできないもの」こそが神である。ゆえに、神は存在する。
アンセルムスは、無神論者(彼が「愚か者」と呼んだ人々)ですら「それより大きなものを想像することのできないもの」という概念を理解できると主張し、その概念を受け入れさえすれば、神の存在を否定することは論理的に矛盾すると論じました。
ガウニロの反論:「完全な島」
アンセルムスの同時代の修道士であるガウニロは、すぐにこの証明に対して反論しました。彼は「それより大きなものを想像することのできない島」という概念を持ち出しました。
ガウニロは、アンセルムスと同じ論法を使えば、「それより大きなものを想像することのできない島」が現実にも存在することが証明できてしまう、と指摘しました。
- 私たちは「それより大きなものを想像することのできない島」という概念を理解できる。
- もしその島が知性の中にしか存在しないなら、現実にも存在する同じ概念の島の方が、より「大きな」(より完全な、より望ましい)島であると言える。
- したがって、「それより大きなものを想像することのできない島」は、現実にも存在しなければならない。
しかし、私たちはそのような「完璧な島」が実際に存在することを経験的に知っているわけではありません。ガウニロは、この論法が馬鹿げた結論を導くことを示唆することで、アンセルムスの論法に何か問題があることを示そうとしました。
アンセルムスはこれに対し、彼の論法が適用できるのは「それより大きなものを想像することのできない」という特別な性質を持つもの、つまり神に限定されると反論しました。しかし、この反論がガウニロの批判に完全に答えているかは議論の余地があります。
デカルトの存在論的証明
近世哲学の祖とされるルネ・デカルトもまた、存在論的証明を提唱しました。彼の議論は、三角形の内角の和が180度であることや、山の概念には谷の概念が含まれることになぞらえられます。
デカルトの議論は概ね以下の通りです。
- 私は、あらゆる完全性(完璧さ)を備えた存在者である神という概念を明晰かつ判明に認識している。
- 存在するという性質(実存)は、完全性の一つである。
- もし神が存在しないとすれば、神はあらゆる完全性を備えていることにならない。
- しかし、神はあらゆる完全性を備えている存在者であると定義される。
- これは矛盾である。
- したがって、神は存在する。
デカルトは、神という概念から存在を切り離すことは、山の概念から谷を切り離すのと同じように、不可能であると考えました。神という概念そのものの中に、存在するという性質が含まれていると主張したのです。
カントによる古典的な批判:「存在は述語ではない」
存在論的証明に対する最も強力で影響力のある批判の一つは、18世紀の哲学者イマヌエル・カントによるものです。カントは、存在論的証明の根本的な誤りは、「存在(実存)」を物事の性質(述語、predikate)として扱っている点にあると論じました。
カントの議論は以下の通りです。
- 私たちが何かについて語るとき、例えば「バラは赤い」と言うとき、「赤い」はバラという対象の性質(述語)です。バラは赤いという性質を持つことで、他のバラと区別されたり、何らかの特徴を表現されたりします。
- しかし、「バラは存在する」と言うとき、「存在する」はバラに新しい性質を加えているわけではありません。存在するとは、単にある概念に対応するものが現実の世界にあることを意味します。
- カントは例として、想像上の「100ターラー銀貨」と、実際にポケットに入っている「100ターラー銀貨」を比較します。概念としての100ターラー銀貨と、現実の100ターラー銀貨は、概念の内容(形、価値など)においては全く同じです。現実の100ターラー銀貨が、概念上の100ターラー銀貨に何か新しい性質(例えば「光沢がある」とか「重い」とか)を加えることで存在しているのではありません。存在は、概念そのものの内容を豊かにする性質(述語)ではないのです。
- 存在論的証明は、「完全な存在者」という概念の中に「存在」という性質を含ませることで、その概念から存在そのものを導こうとします。しかし、カントによれば、「存在」は概念の内容を構成する性質ではないため、「完全な存在者」という概念の中に「存在」という性質を含ませることはできません。概念としての「完全な存在者」と、現実の「完全な存在者」は、概念の内容としては同じであり、単に後者が現実の世界に実在するという違いがあるだけです。
- したがって、存在論的証明は、「存在」を誤って述語として扱っているがゆえに成立しない、とカントは結論付けました。
カントの「存在は述語ではない」という批判は、存在論的証明、特にデカルト的な定式化に対して非常に説得力があり、その後の哲学における存在論的証明の評価に大きな影響を与えました。
現代哲学・論理学からの視点
カントの批判以降も、存在論的証明に対する議論は続いています。
- 様相論理学からのアプローチ: 20世紀以降、様相論理学(可能性や必然性といった概念を扱う論理学)を用いて存在論的証明を再定式化する試みが行われています。最も有名なのは、アルヴィン・プランティンガによる様相存在論的証明です。彼は、「極大の偉大さ(maximal greatness)」という性質(これは「あらゆる可能世界において極大の卓越性を持つ」ことと定義される)を持つ存在者が可能世界に存在するならば、それは現実世界にも必然的に存在すると論じました。これはカントの批判を回避しようとするものですが、その前提(「極大の偉大さを持つ存在者が可能世界に存在する可能性」)を受け入れるかどうかは、結局のところ信条の問題に帰着するという批判もあります。
- 論理実証主義からの批判: 20世紀前半の論理実証主義者たちは、存在論的証明のような神に関する言明は、経験的に検証不可能であるため、意味がない(認知的に無意味である)と主張しました。彼らにとって、このような哲学的な議論は、科学的な知識とは全く異なるカテゴリーに属するものでした。
現代の多くの哲学者や論理学者は、依然として存在論的証明を論理的に妥当なものとは見なしていません。カントの批判、あるいはその現代的な変形が広く受け入れられています。存在論的証明は、概念的な分析だけで現実の存在を導こうとする根本的な困難を抱えていると考えられています。
まとめ
存在論的証明は、「神」という概念や定義そのものから神の存在を論理的に導こうとする、非常に独特な神存在証明です。アンセルムスやデカルトによって定式化されましたが、ガウニロによる素朴な反論や、特にカントによる「存在は述語ではない」という強力な批判によって、その論理的な妥当性は大きく揺らぎました。
現代の哲学や論理学においても、様相論理学を用いた再定式化の試みはありますが、依然として存在論的証明が神の存在を論理的に証明するものとして広く受け入れられている状況ではありません。多くの議論は、証明の前提や、概念から存在を導くことの根本的な困難性に焦点を当てています。
無神論者や懐疑論者の立場から見れば、存在論的証明は、現実世界における証拠を全く必要とせず、言葉遊びや概念操作のように映るかもしれません。哲学史上の重要な論点ではありますが、神の存在を信じるに足る論理的な根拠としては、現代においてその説得力は非常に限られていると言えるでしょう。
今後も、様々な神存在証明論について、論理的な視点から解説と批判を行っていきます。