神は「必要不可欠な存在」として証明できるか?必要存在論的証明の解説と論理的反論
はじめに:「必要不可欠な存在」という神の概念
神存在証明論の議論において、「神」という概念がどのように捉えられるかは重要な出発点となります。数ある神の属性の中でも、「必要不可欠な存在(Necessary Being)」であるという性質は、神の存在を論理的に証明しようとする一部の試みにおいて、その根幹をなす考え方です。
無神論や懐疑論の立場からは、そもそもなぜ特定の存在(神)を「必要不可欠」と見なす必要があるのか、あるいは「必要不可欠な存在」という概念自体が何を意味するのか、といった根本的な疑問が生じるかもしれません。
この記事では、この「必要不可欠な存在」という概念を用いた神証明論(いわゆる必要存在論的証明)がどのような論理構造を持つのかを解説し、それに伴う哲学的な課題や、現代の論理学・哲学からの批判について掘り下げていきます。
「必要不可欠な存在」とは何か?
哲学において「必要不可欠な存在」とは、存在しないことが論理的に不可能であるような存在を指します。これに対し、私たちの身の回りの多くの存在は、存在する可能性もあったが、存在しない可能性もあったものと考えられます。こうした、存在したりしなかったりする可能性のある存在は「偶有的な存在(Contingent Being)」と呼ばれます。
例えば、このデスクや椅子は偶有的な存在です。それらが存在しない世界を想像することは論理的に可能です。しかし、必要不可欠な存在とされるものは、どのような論理的に可能な世界においても必ず存在するとされます。
この概念は、様相論理学(可能性や必然性といった様相を扱う論理学)の枠組みでしばしば議論されます。様相論理学では「可能世界(Possible World)」という概念を用います。可能世界とは、「もし〇〇だったら」と想像されるような、論理的に矛盾しないありうる世界のことを指します。この枠組みにおいて、必要不可欠な存在とは「全ての可能世界に存在する存在」と定義されます。
神を必要不可欠な存在と見なす考え方は、神は宇宙やその法則に依存せず、それ自体が自己充足的かつ究極的な実在である、という神学的な思想と結びついています。
必要存在に基づく神証明の論理構造
神を必要不可欠な存在と見なすことから神の存在を導こうとする証明論の典型的な論理構造は、非常に単純な形をとることがあります。
- 神は定義上、必要不可欠な存在である。
- 必要不可欠な存在は存在する。
- したがって、神は存在する。
あるいは、より様相論理的な形式をとる場合もあります。
- 神が存在することは可能である。(少なくとも論理的に矛盾しない概念である)
- 神は(存在するとすれば)必要不可欠な存在である。
- したがって、神が存在することは必然である。
- 必然的に存在するものは存在する。
- したがって、神は存在する。
これらの証明は、特に前提1や前提2(上の後者の例では前提1と2)の妥当性に大きく依存しています。もしこれらの前提が認められれば、論理的には結論が導かれるように見えます。
必要存在論的証明に対する論理的批判
無神論者や懐疑論者、あるいは神証明論に批判的な哲学者は、上記の論証に対して様々な論理的な問題を指摘しています。その主なものを見ていきましょう。
1. 「神は必要不可欠な存在である」という前提への疑問
最も根本的な批判は、なぜ「神」という概念が「必要不可欠な存在」を含むと見なせるのか、その根拠が不明確であるという点です。これは一種の定義による証明、つまり存在論的証明の一形式と見なすことができます。
- 定義から存在は導けない: カントなど多くの哲学者が指摘するように、「最も完璧な存在」や「必要不可欠な存在」といった概念を定義すること自体は可能ですが、その定義がそのまま現実世界における存在を保証するわけではありません。概念的な整合性や完璧さがあることと、それが実在することは全く別の問題です。
- 概念の整合性自体の問題: 「必要不可欠な存在」という概念自体が、論理的に首尾一貫しているのかどうかも問われることがあります。もしこの概念が内在的な矛盾を含んでいるとすれば、それはそもそも成立しない概念となり、存在の議論の出発点にすらなりえません。神学者や哲学者はこの概念の整合性を擁護しようと試みますが、無神論の立場からはその論証は自明ではないと見なされます。
2. 「必要不可欠な存在は存在する」という推論への疑問
上記の単純な形式の証明において、前提2「必要不可欠な存在は存在する」は、必要不可欠な存在の定義から導かれるように見えますが、ここに議論のポイントがあります。
- 存在の述語性: 「存在する」という言葉が、性質や属性(述語)として機能するのかという哲学的問いがあります。カントは、存在は対象に何らかの性質を加えるものではなく、単に概念に対応する対象があるかどうかを示すものだと考えました。もし存在が述語ではないとすれば、「必要不可欠に存在する」という表現自体が、意味をなさないか、あるいは特別な解釈を必要とすることになります。「必要不可欠である」という性質は認められても、「その性質を持つものが現実世界に実在する」こととは論理的に断絶がある、と批判されます。
3. 様相論理を用いた証明への批判
現代の様相論理を用いた証明(例えばプランティンガの証明)は、より洗練されていますが、やはり前提や推論に批判が集中します。
- 「神が存在することは可能である」という前提の根拠: プランティンガのような議論では、「神が存在することは可能である」(つまり、神が存在するような可能世界が少なくとも一つ存在する)という前提から出発します。しかし、無神論者にとってはこの前提こそが証明されるべきものであり、自明な真理ではありません。神という概念が本当に論理的に矛盾しないのか(例えば、全能や全知といった他の属性との整合性)、無神論者には疑問が残ります。この前提の受け入れを「理にかなっている(reasonable)」として擁護する議論もありますが、それは証明ではなく説得の試みと見なされることがあります。
- 可能世界論の妥当性: 可能世界という概念自体は論理学で有効なツールですが、それが現実世界における存在者の性質に関する議論に直接適用できるか、あるいは特定の可能世界(例えば、神が存在する世界)の性質について、我々が確かな知識を持ちうるのか、といった哲学的疑問も提示されます。
現代哲学における評価
現代哲学において、必要存在論的証明は依然として活発な議論の対象ですが、その説得力については懐疑的な見方が優勢です。特に無神論や自然主義を採る哲学者からは、上記の批判点が繰り返し指摘されます。
証明を擁護する側は、批判に対する反論を展開し、概念の整合性や前提の妥当性を論理的に示そうと試みます。しかし、決定的な証明としては広く受け入れられておらず、前提を受け入れるかどうかで立場が分かれる、という状況が続いています。
多くの場合、必要存在論的証明は、すでに神の存在を信じている人々にとっては信仰を論理的に補強するものとして見なされるかもしれませんが、無神論者や懐疑論者に対して、これまで存在を否定していた神の存在を新たに納得させるほどの論理的な力は持たない、と評価されています。
まとめ:論理的な壁を越える難しさ
神を「必要不可欠な存在」と定義し、その属性から神の存在を導こうとする必要存在論的証明は、論理的には興味深い試みです。しかし、無神論や懐疑論の立場から見ると、その論証は「神は必要不可欠な存在である」という定義や前提の妥当性、そして概念上の可能性から現実の存在を導く推論の正当性という、乗り越えがたい論理的な壁に直面しています。
これらの証明は、純粋に概念や論理的な可能性に基づいて展開されるため、経験的な証拠に依存する科学的な証明とは性質が異なります。そして、定義や概念操作によって存在を導き出そうとする試みは、カント以来の根強い批判にさらされており、現代の論理学や哲学をもってしても、無神論者を納得させる論理的必然性を示すには至っていないのが現状です。
この記事が、必要存在論的証明という神存在証明論の一側面について、論理的な視点から理解を深める一助となれば幸いです。