様相論理は神を証明できるか?プランティンガの証明論と無神論からの論理的反論
はじめに:現代哲学と神存在証明
歴史的に様々な形で試みられてきた神存在証明論は、イマヌエル・カントなどの批判を経て、哲学におけるその地位を大きく揺るがされました。特に、概念から存在を直接導き出そうとする存在論的証明は、カントの批判によって多くの哲学者から退けられることとなりました。
しかし、20世紀後半に入ると、様相論理という新たな論理学のツールを用いて、古典的な存在論的証明を現代的に再構築しようとする試みが現れます。その中でも特に有名なのが、哲学者アルヴィン・プランティンガによる様相存在論的証明です。
本記事では、プランティンガの様相存在論的証明の基本的な構造を解説し、それが無神論者や懐疑論者にとって説得力を持つのかどうかを、論理的な観点から検討します。この証明は、一見すると非常に厳密な論理形式を持っているように見えますが、その論理的な健全性、特に前提の受け入れ可能性には、多くの哲学的な問いが含まれています。
様相論理の基本概念:可能世界と必然性
プランティンガの証明を理解するためには、まず様相論理の基本的な概念を理解しておく必要があります。様相論理は、「可能である」「必然である」「偶然である」といった様相と呼ばれる概念を扱う論理学です。
様相論理では、これらの様相を説明するために「可能世界(Possible World)」という概念を用いることがあります。可能世界とは、私たちが実際に存在しているこの「現実世界」とは異なる、論理的に考えうるあらゆる世界のあり方を抽象的に表現したものです。例えば、「私が今立っている」という事実は現実世界でのみ真ですが、「もし私が座っていたならば」という状態は、別の可能世界では真であると考えることができます。
- 可能性(Possibility): ある事柄が少なくとも一つの可能世界で真であるとき、それは可能であると言われます。例えば、「空飛ぶ馬が存在する」ことは、現実世界では真ではないかもしれませんが、論理的に矛盾しない限り、ある可能世界では真であると考えられ、したがって可能であるとされます。
- 必然性(Necessity): ある事柄があらゆる可能世界で真であるとき、それは必然であると言われます。例えば、「2+2=4」は、どのような可能世界を考えても真であると考えられるため、必然的な真理とされます。
- 偶然性(Contingency): ある事柄が現実世界では真だが、他の可能世界では偽であるとき、それは偶然的であると言われます。例えば、「私が今この記事を書いている」ことは現実世界では真ですが、別の可能世界では私がこの記事を書いていない可能性もあり、これは偶然的な真理です。
プランティンガの証明は、「必然的に存在する存在」という概念と、この様相論理における「あらゆる可能世界で存在する」という概念を結びつけて議論を展開します。
プランティンガの様相存在論的証明の構造
プランティンガは、神をある特定の性質を持つ存在として定義し、その性質を持つ存在が論理的に可能であるならば、必然的に存在すると主張します。彼の証明の核となる概念は「最大存在(Maximally Great Being)」です。
「最大存在」とは、「あらゆる可能世界において最大優秀性(Maximally Excellent)を持つ存在」と定義されます。そして、「最大優秀性」とは、全知(omniscience)、全能(omnipotence)、全善(omni-benevolence)といった伝統的な神の属性を、最高度に、かつ両立する形で全て備えている状態を指すとされます。
プランティンガの証明は、概ね以下のようなステップで構成されます。
- 定義: 「最大存在」とは、あらゆる可能世界において最大優秀性を持つ存在である。
- 前提1: 最大優秀性を持つ存在が存在することは論理的に可能である。(◇∃x (x is Maximally Excellent))
- 論理的ステップ: もし最大優秀性を持つ存在が存在することが論理的に可能であるならば、それはあらゆる可能世界において最大優秀性を持つ存在である。(これは様相論理の特定の公理や定義から導かれるとされる)
- 理由:ある性質Pが必然的に持たれる性質であるならば、Pを持つことが可能であることと、Pを持つことが必然であることは同値である、という様相論理における原則に基づいています。最大優秀性を持つ存在は、その性質上、必然的に存在しなければ最大優秀性を持てない(もし存在しない可能世界があるなら、あらゆる可能世界では存在しないことになり、最大存在ではない)からです。
- 推論: したがって、最大優秀性を持つ存在はあらゆる可能世界において最大優秀性を持つ存在である。(前提1と論理的ステップから)
- 結論: ゆえに、最大存在(すなわち神)は現実世界に存在する。(あらゆる可能世界に存在するならば、当然現実世界にも存在する)
この証明は、論理的な推論形式としては有効であると広く認められています。つまり、もし前提が全て真であるならば、結論は必然的に真となります。したがって、この証明に対する批判は、その論理形式そのものではなく、前提の「健全性(Soundness)」、特に前提1が真であるかどうかという点に集中します。
無神論・懐疑論からの論理的反論:前提の健全性への問い
無神論者や懐疑論者の立場からプランティンガの証明を評価する際、最も重要な論点は「最大優秀性を持つ存在が存在することは論理的に可能である」という前提1を受け入れるべき理由があるか、という点です。
この前提1は、単に「論理的に矛盾しない概念である」ということを主張しているに過ぎないように見えます。しかし、無神論者にとって、この前提は簡単には受け入れられないものです。その理由として、以下の点が挙げられます。
1. 「最大優秀性」概念の首尾一貫性への疑問
プランティンガは「最大優秀性」を全知、全能、全善といった性質の集合と定義します。しかし、これらの性質が全て両立しうるのか、あるいは論理的に首尾一貫した一つの概念を形成しうるのかという問題があります。
例えば、「全能性」はそれ自体が論理的なパラドックス(「神は自分自身が持ち上げられないほど重い石を作れるか?」など)を含む可能性が指摘されており、この概念が論理的に可能であると無条件に仮定することは難しい場合があります。また、全知と全能、全善といった属性を全て併せ持つ存在の概念が、本当に論理的に矛盾なく定義できるのかという疑問も生じます。
もし「最大優秀性を持つ存在」という概念自体が論理的に矛盾を含んでいるならば、そのような存在が「存在する可能性」も論理的にはあり得ません。そうなれば、前提1は偽となり、証明全体が成り立たなくなります。
2. 論理的可能性から現実の存在への跳躍
仮に「最大優秀性を持つ存在」という概念が論理的に首尾一貫しており、したがってそのような存在が「存在する可能性」があることを認めたとします。しかし、様相論理における「可能性」の概念は、あくまで論理的な整合性に関する主張であり、現実世界における存在を保証するものではありません。
「論理的に矛盾しない概念だから、それが現実世界に存在する可能性がある」という主張は理解できます。しかし、プランティンガの証明は、論理的な可能性から、それが必然的に、つまりあらゆる可能世界に、そして現実世界にも「存在する」ことを導き出そうとします。
無神論者や懐疑論者にとって、論理的な可能性を認めることと、現実の存在を認めることの間には大きな隔たりがあります。「Xという概念は論理的に矛盾しない」ということだけでは、「Xが現実に存在する」という主張を受け入れる根拠にはなりません。例えば、「論理的に矛盾しないが現実には存在しないもの」は数多くあります(例: 空飛ぶ馬、完璧な円など)。
3. 前提1の接受拒否:無神論者の合理的な立場
結局のところ、プランティンガの証明の説得力は、「最大優秀性を持つ存在が存在することは論理的に可能である」という前提1を、読者が自らの判断で受け入れるかどうかにかかっています。
無神論者や懐疑論者は、この前提1を論理的に拒否したり、少なくとも保留したりすることが合理的であると考えます。なぜなら、この前提を受け入れることは、「神が存在する可能性」を認めることに他ならず、これは証明したい結論の一部(あるいは結論と強く関連するもの)を、議論の開始時点ですでに認めてしまっていることになるからです。
これは、まるで「AならばBである。そしてAは可能である。ゆえにBは必然的に存在する」という形式で、もしAが「神が存在する」のようなものであるならば、無神論者にとってAの可能性を認めること自体が困難な問題となるのと似ています。
プランティンガ自身も、この証明が神を信じない人々を論理的に強制するものではないことを認めています。証明は、あくまで前提1を受け入れる人々に対して有効なのであり、無神論者が前提1を論理的に拒否する限り、証明は彼らに対して説得力を持たないのです。無神論者は、「最大優秀性を持つ存在」の概念が論理的に可能であるという主張に対して、単に「その論理的可能性を示す十分な根拠がない」「少なくとも私にはそう思えない」と答えることができます。
まとめ:証明の限界
アルヴィン・プランティンガの様相存在論的証明は、現代論理学を用いて古典的な証明論を洗練させた興味深い試みです。その論理的な推論形式は有効であると評価されています。
しかし、無神論や懐疑論の立場から見ると、この証明は決定的なものではありません。その最大の理由は、「最大優秀性を持つ存在が存在することは論理的に可能である」という核心的な前提の健全性が、容易には受け入れられない点にあります。この前提を受け入れるかどうかは、最終的には哲学的な直観や世界観に関わる問題であり、論理的な必然として強制されるものではありません。
したがって、プランティンガの様相存在論的証明は、神存在を信じる人々に自らの信仰の論理的な整合性を示す上では意義があるかもしれませんが、神の存在を信じない人々を説得する論理的な根拠としては、その役割を果たし得ないと言えるでしょう。神の存在をめぐる議論は、様相論理を用いたとしても、依然として前提、概念、そしてそれらを受け入れる理由に関する深い哲学的問いから離れることはできません。