神の属性論が抱える論理的ジレンマ:無神論からの批判的視点
はじめに:神存在証明論の前提としての「神の属性」
無神論や懐疑論の立場をとる方々にとって、神存在証明論はしばしば、受け入れがたい前提や論理的な飛躍を含んでいるように見えます。神存在証明論を検討する際、その論理構造だけでなく、「神」という概念そのものに含まれる定義や属性に目を向けることは非常に重要です。なぜなら、多くの証明論は、神が特定の属性(例:全能、全知、遍在、必然的存在など)を持つことを前提としているからです。
しかし、これらの神の属性は、それ自体が様々な論理的、概念的な問題を抱えている場合があります。本記事では、古典的な神学で語られる神の主要な属性に焦点を当て、それらがどのような論理的なジレンマや疑問を抱えているのか、そしてそれが神存在証明論にどう影響するのかを、無神論・懐疑論の視点から批判的に検討いたします。
古典的な神の属性論とは何か
伝統的な一神教の神学では、神は以下のような様々な属性を持つとされます。
- 全能 (Omnipotence): 神は論理的に可能な全てのことができる。
- 全知 (Omniscience): 神は全てのことを知っている(過去、現在、未来、可能な全ての事実)。
- 遍在 (Omnipresence): 神はあらゆる場所に同時に存在する。
- 全善 (Omnibenevolence): 神は完全に善である。
- 不変 (Immutability): 神は時間の中で変化しない。
- 永続 (Eternality): 神は時間の中に存在するか、時間を超越して存在する。
- 非物質 (Immateriality): 神は物質的な存在ではない。
- 単純性 (Simplicity): 神は構成要素に分解できない、究極的に単純な存在である。
- 必然的存在 (Necessary Existence): 神は存在しないことが論理的に不可能である。
これらの属性は、神の概念を規定し、それぞれの神存在証明論において、その前提や結論として暗黙的あるいは明示的に利用されます。例えば、宇宙論的証明は第一原因や必然的存在としての神を示唆し、存在論的証明は「最も偉大な存在」という概念に全属性が包含されると考えがちです。
神の属性が証明論にもたらす論理的な課題
これらの神の属性の中には、一見すると論理的に矛盾しているように見えたり、人間の経験や理解の範疇を超えているために明確な定義が困難であったりするものがあります。無神論や懐疑論の立場からは、こうした属性の妥当性が問われることになります。
1. 全能性のパラドックス
「自分自身が持ち上げられないほど重い石を作れるか?」という問いに代表されるように、全能性という概念は論理的なパラドックスを生む可能性があります。もし「作れる」とすれば、その石を持ち上げられないので全能ではない。もし「作れない」とすれば、その石を作れないので全能ではない、というジレンマです。神学的には様々な解決策が提案されていますが、「論理的に不可能なことは含まない」といった限定を加えることが多いです。しかし、この限定自体が全能性の厳密な定義を曖昧にし、何が論理的に可能/不可能かの判断を誰が行うのか、という問題を生じさせます。
2. 全知性と他の属性の緊張関係
全知性は、特に未来に関する知識について、人間の自由意志と矛盾する可能性が指摘されます(決定論の問題)。また、不変性との関係も問題となりえます。もし神が全てのことを知っているなら、時間と共に新たな知識を得ることはありません。しかし、創造や摂理といった「行為」は時間の中で起こるように見え、神がそれらを知ることは神の中で何らかの変化(状態の変化)を伴うのではないか、という疑問が生じます。不変であるはずの神が、いかにして時間の中の出来事に関与するのか、という論理的な説明が求められます。
3. 遍在性と非物質性の概念的な難しさ
神が「あらゆる場所に同時に存在する」という遍在性は、物質的な存在のあり方とは根本的に異なります。現代物理学では、空間や時間は物理的な実体と深く結びついています。非物質的な存在がどのようにして空間的な概念である「あらゆる場所」に「存在する」のか、そのメカニズムや意味するところは直感的に理解しがたく、明確な定義が困難です。これは単なる理解の問題だけでなく、物理的な世界と非物質的な神の関係性を論じる上で、概念的な曖昧さを伴います。
4. 単純性と複雑な行為の矛盾
神は究極的に単純であり、部分を持たないとされる単純性は、神学的な洗練された概念です。しかし、この単純な存在が、宇宙を創造したり、法則を定めたり、祈りに応えたりといった、非常に多様で複雑に見える「行為」をどのように行うのか、という疑問が生じます。単純性という属性と、創造や摂理といった概念がどのように整合するのか、その論理的な説明は容易ではありません。
無神論からの批判的視点
無神論や懐疑論の立場から見れば、これらの神の属性が抱える論理的・概念的な問題は、神存在証明論全体の説得力を弱める要因となります。
- 前提の妥当性: 神存在証明論が、定義が曖昧であったり論理的な問題を抱えていたりする属性を前提としている場合、その証明の結論もまた揺らぎます。例えば、「最も偉大な存在」(その属性として全能性や全知性が含まれる)の存在を証明しようとしても、その「偉大さ」を構成する属性自体が論理的に成立しえない可能性があるなら、証明は前提の段階で破綻します。
- 概念の不明瞭さ: 神の属性に関する議論は、しばしば人間の言語や論理の限界に直面し、不明瞭な概念を用いることがあります。論理的厳密さを重視するならば、証明に用いられる概念は明確に定義されている必要があります。神の属性論における不明瞭さは、証明論を理性的な議論の舞台から、定義の曖昧さや信仰的な飛躍を含む領域へと押しやってしまう可能性があります。
- 説明責任: 神の存在を肯定する側には、自身が想定する「神」の概念(すなわち、その属性)が論理的に整合しており、かつ証明論の前提として妥当であることを示す説明責任があります。属性論が抱える問題点は、この説明責任を果たすことの難しさを示しています。
結論:属性論は証明論の土台を問い直す
神存在証明論は、しばしば宇宙の始まりや世界の秩序といった経験的な事柄、あるいは純粋な論理から神の存在を導こうとします。しかし、これらの証明論が想定する「神」が、全能、全知、遍在といった特定の属性を持つ存在であるならば、その属性論自体が抱える論理的なジレンマや概念的な曖昧さは、証明論の土台を揺るがすことになります。
無神論や懐疑論の立場からは、神の存在を証明しようとする試みを評価する際に、その証明が依拠する神の概念、特にその属性が論理的に整合しており、かつ理性的な議論の対象となりうるかを厳しく問い直すことが重要です。神の属性論が抱える問題点に目を向けることで、神存在証明論が単なる論理パズルではなく、特定の神学的概念を前提とした議論であることをより深く理解できるようになるでしょう。そして、それらの概念が抱える課題は、証明論が乗り越えなければならない、あるいはそもそも乗り越えられない根本的な障害となりうるのです。