神の証拠が見つからないことは何を意味するか?「証拠の不在」の論理と神存在証明論への批判
はじめに:「神の証拠が見つからない」という状況
無神論者や懐疑論者に対する一般的な反論の一つに、「神が存在しないという決定的で直接的な証拠はないのだから、神の存在を否定することはできない」という主張があります。この主張の背後には、「証拠がないこと(absence of evidence)は、そのものが存在しないこと(evidence of absence)の証明にはならない」という論理的な原則が存在します。
科学や法廷、日常生活においても広く受け入れられているこの原則は、神存在論の文脈でどのように理解されるべきでしょうか。神の証拠が見つからないという現状は、本当に神の不在を証明しないのでしょうか。そして、この原則は神存在証明論者と無神論者の議論において、どのような論理的な意味を持つのでしょうか。
本記事では、「証拠の不在は不在の証拠にあらず」という原則を掘り下げ、それが神存在証明論に適用される場合の論理的な問題点や、無神論からの批判について考察します。
「証拠の不在は不在の証拠にあらず」の原則とは
この原則は、あるものが存在するという証拠が見つかっていないという事実から、直ちにそのものが存在しないと結論づけることはできない、というものです。より正確には、「ある事柄が真実であるという証拠が見つからない」という情報だけでは、「その事柄が偽である」と結論づける十分な根拠にはならない、と表現できます。
例えば、ある部屋に特定の種類の昆虫がいるという証拠が見つからなかったとしても、それは部屋にその昆虫がいないことを確定的に証明するわけではありません。単に見つけられなかっただけかもしれないからです。
この原則は、特に「証拠を見つけるための努力が不十分である場合」や、「求められている証拠の性質が不明確である場合」に強く当てはまります。しかし、証拠を徹底的に探し、見つからないことが合理的に期待される状況であれば、「証拠の不在」が「不在の証拠」となりうる場合もあります。例えば、小さな部屋を隅々まで徹底的に探してもその昆虫が見つからなかった場合、そこにいない可能性は極めて高いと推論できます。
神存在論におけるこの原則の適用
神存在証明論者の中には、この「証拠の不在は不在の証拠にあらず」という原則を持ち出し、無神論者が神の存在を否定することの論理的な根拠の弱さを指摘する場合があります。彼らは、神が存在しないという直接的な証拠は提示されていないのだから、無神論は論理的に正当化されない、と主張するのです。神は通常の物理的な存在とは異なるため、科学的な方法で証拠を探すことは不可能であり、したがって証拠が見つからないのは当然だ、という論理も伴うことがあります。
この主張に対し、無神論者や懐疑論者はどのように応答できるでしょうか。単に原則を認めるだけでなく、その原則が神存在論の文脈でどのように機能するのかを、より深く論理的に分析する必要があります。
無神論からの批判と論理的な反論
「証拠の不在は不在の証拠にあらず」という原則は、確かに論理的に正しい場合があります。しかし、これが神存在論の議論において、常に神の存在を否定できない根拠となるわけではありません。無神論からの批判は、主に以下の論点に集約されます。
1. 求められる「証拠」の性質と神の定義
神存在証明論で論じられる神は、単なる「何か得体の知れない存在」ではなく、全能、全知、遍在、完全善といった特定の属性を持つ存在として定義されることが多いです。このような属性を持つ神が実在する場合、その存在は何らかの形で観察可能であったり、あるいはその活動が宇宙や人間の経験に何らかの影響を与えたりすることが期待されます。
例えば、もし神が全能であり、人間の苦悩を深く憂う完全善の存在であるなら、なぜ世界にはあれほどの悪や苦しみが存在するのか、という「悪の問題」が生じます。また、もし神が常に宇宙に遍在し、摂理によってすべてを支配しているなら、なぜ神の直接的な介入を示すような明確で普遍的な証拠が見られないのか、という疑問が生じます。「神の隠蔽」という論点もこれに関連します。
これらの場合、「神の証拠が見つからない」という状況は、単に探し方が悪いというよりも、神の定義そのものと、観測されている世界の状況との間に論理的な矛盾や強い不整合があることを示唆している可能性が高まります。特定の属性を持つ神がもし存在するならば、その痕跡や影響は避けられないはずなのに、それが「不在」であるという事実は、その属性を持つ神の「不在」の強い証拠となりうるのです。
2. 「徹底的な探索」と同等の状況
科学における「証拠の不在は不在の証拠にあらず」という原則は、多くの場合、特定の場所や限られた条件下での探索に適用されます。しかし、ある領域を可能な限りの方法で徹底的に探索し、それでも証拠が見つからない場合、その領域には存在しない可能性が極めて高いと結論づけるのが合理的です。
神存在論の場合、神の「探索」の領域とは、宇宙全体、歴史全体、人間の意識など、考えうるあらゆる領域になります。人類は何千年もの間、様々な方法(理性、経験、啓示など)を通じて神の存在やその影響を探求してきました。現代科学もまた、自然界の法則や宇宙の起源などを詳細に調べていますが、そこから特定の属性を持つ神の存在を直接的に示す証拠は見つかっていません。
もちろん、物理的な証拠だけが神の証拠ではないという反論は可能です。しかし、理性的な議論、論理的な分析、そして人間のあらゆる経験や知識を動員した探求にもかかわらず、神の存在を示す納得のいく普遍的な証拠が見つからないという状況は、単なる「見つけられなかった」というよりも、「そこに存在しない可能性が高い」と推論することを、少なくともある程度正当化しうる状況と言えるでしょう。
3. 証明責任の所在
「証拠の不在は不在の証拠にあらず」という原則が最も関連するのは、「証明責任」の論点です。神が存在すると主張する側が、その主張を裏付ける証拠を提示する責任を負うのが論理的です。存在しないことの証明は、原理的に困難な場合が多いからです(例えば、「宇宙のどこにもユニコーンは存在しない」ことを完全に証明することは不可能に近い)。
無神論は、厳密には「神は存在しない」という主張ではなく、「神が存在するという十分な証拠がないため、その存在を信じる理由がない」という立場(不可知論に近い立場を含む)として理解されることが多いです。この立場であれば、無神論者は神の不在を証明する責任を負いません。単に、神存在証明論者が提示する証拠や論証が不十分であることを指摘すればよいのです。
この場合、「神の証拠が見つからない」という状況は、無神論者の立場を弱めるものではなく、むしろ神存在証明論者の主張を裏付ける証拠が提示されていないという、彼らにとって不利な状況を正確に記述していることになります。
結論:「証拠の不在」が神存在論に突きつける課題
「証拠の不在は不在の証拠にあらず」という原則は、それ自体は有用な論理的ツールです。しかし、これが神存在証明論の文脈で持ち出される場合、その適用には慎重な分析が必要です。
単に「神の証拠が見つからないだけだ」と主張することは、神の特定の定義(全能、全知など)と世界の現実との間の不整合、「徹底的な探索」と同等の状況、そして証明責任の所在といった論点を見過ごすことになります。
無神論者や懐疑論者は、「証拠の不在」という状況が、単なる偶然や探索不足ではなく、神の定義そのものが抱える論理的な問題や、神が存在しない可能性の高さを示唆している点を論理的に主張することができます。神存在証明論が説得力を持つためには、「証拠の不在」という現状を説明できる、より整合性の取れた神概念を提示するか、あるいは現状の「証拠の不在」を覆すような強力な論証や証拠を提示する必要があります。現在のところ、多くの無神論者・懐疑論者にとって、そのような論証や証拠は提示されていないと見なされています。
「証拠の不在」は、神存在論において、単に否定を難しくする原則として機能するだけでなく、神概念や証明責任といった、より深い論理的な課題を浮き彫りにする論点であると言えるでしょう。