無限後退はなぜ「問題」なのか?神存在証明論が避ける論理的連鎖への無神論からの批判
はじめに:無神論者にとっての「無限後退」問題
無神論や懐疑論の立場をとる方々にとって、神存在証明論はしばしば論理的な飛躍や前提の不明確さを含んでいるように映るかもしれません。多くの神存在証明論、特に宇宙論的証明や第一原因論と呼ばれるものにおいて、議論の重要なポイントとなるのが「無限後退」の問題です。
彼らは、「すべての物事には原因があり、その原因にもまた原因がある」という連鎖をたどっていくと、それが無限に続いてしまう(無限後退)と考えます。そして、「無限後退は不可能である」と主張し、この原因の連鎖を終わらせる「最初の原因」、すなわち神の存在を導こうとします。
しかし、この「無限後退は不可能である」という主張は、本当に論理的に成立するのでしょうか?無神論や懐疑論の視点から見ると、この主張自体が検証を要する前提であり、必ずしも自明ではない論理的な困難を伴います。
本稿では、神存在証明論がなぜ無限後退を問題視し、それをどのように回避しようとするのかを解説し、それに対して現代の論理学や哲学、さらには科学的な視点からどのような批判や反論が可能かを論理的に検討していきます。
神存在証明論における無限後退の役割
神存在証明論の中で無限後退が特に重要な役割を果たすのは、主に以下の証明論です。
- 宇宙論的証明: 「宇宙に存在するすべての出来事や存在には原因がある」という前提から出発し、その原因の連鎖をたどります。この連鎖が無限に続くと考えると、現在の宇宙の存在を説明できない、あるいは論理的に受け入れがたいと考え、連鎖の始まりである「第一原因」が必要だと主張します。この第一原因こそが神である、と結論付けます。アリストテレスの「不動の動者」や、トマス・アクィナスの「五つの道」の第一動者、第一原因などがこれにあたります。
- 必要存在論: すべての存在は偶有的(存在しない可能性もあった)であると考えたとき、すべての存在の根拠となる「必然的な存在」(存在しないことが論理的に不可能である存在)が必要だと主張します。偶有的な存在の連鎖を無限にたどっても、最終的な根拠は得られないと考え、無限後退を避ける形で必然的存在(神)を導入します。
これらの証明論は、時間的な原因だけでなく、存在論的な依存関係(ある存在が他の存在に依存して成り立っている関係)における無限後退も問題視することがあります。いずれにせよ、「無限後退は論理的に不可能、または説明力に欠ける」という点が、神へ至るための重要な論理的ステップとなっています。
「無限後退は不可能」という主張への論理的批判
神存在証明論のこの重要な前提「無限後退は不可能である」に対し、無神論や懐疑論、そして現代の論理学からは多くの批判が向けられています。
1. 論理学と数学における無限の可能性
哲学的な議論で無限後退が不可能と見なされがちな一方で、現代の論理学や数学では「無限」は完全に確立された概念であり、無限集合や無限系列は日常的に扱われています。例えば、整数や実数の集合は無限であり、数学的な操作において無限の連鎖を扱うことは全く問題ありません。
哲学的な無限後退(原因の無限連鎖など)と数学的な無限は単純に比較できない、という反論もあり得ますが、少なくとも「無限」という概念自体が本質的に論理的な困難を含むわけではない、という点は重要です。「なぜ物理的・形而上学的な原因の無限連鎖だけが論理的に不可能なのか?」という問いは、無限後退を否定する側に説明責任を課します。
2. 「原因」概念の曖昧さ
神存在証明論が扱う「原因」は、物理的な原因、論理的な根拠、存在論的な依存など、文脈によって揺れ動くことがあります。物理法則に基づく因果関係(AがBを引き起こす)と、論理的な帰結関係(PだからQである)や、存在の依存関係(XはYに依存して存在している)は、性質が異なります。
無限後退を批判する際に、これらの異なる「原因」概念を混同している可能性があります。また、現代物理学においては、因果関係が常に明確な一方向の連鎖として理解できるわけではないという示唆もあります(量子力学など)。哲学的な「原因」概念が、現実世界や論理の世界の複雑さを捉えきれているか、検討が必要です。
3. なぜ「第一原因」は無限後退を免れるのか?
最も根本的な批判の一つは、「もしすべての物事には原因が必要なのであれば、その「第一原因」自身にも原因が必要になるのではないか?」というものです。
神存在証明論者は、第一原因は「自身を原因とするもの(無原因の存在)」であるとか、「存在論的に必然的な存在であるため、原因を必要としない」などと説明します。しかし、この主張は「すべての物事には原因が必要」という最初の前提に対する例外規定を、証明の途中で導入しているに過ぎません。
これは、「すべての鳥は飛べる。ただしペンギンは除く。」という主張に似ています。ペンギンという例外を設けることで「すべての鳥は飛べる」という普遍的な法則性が崩れるように、「すべての物事には原因が必要」という法則に神という例外を設けることで、その法則性の根拠が揺らぎます。なぜ神だけがその法則から免れるのか、その論理的な必然性はどこにあるのか、明確な説明が求められます。
4. 無限後退は本当に説明力が低いのか?
神存在証明論は、無限後退を認めると宇宙の存在や現在の状態を説明できない、あるいは説明が宙に浮いてしまうと考えます。しかし、無限に続く連鎖が必ずしも説明力を欠くわけではありません。
例えば、数学の整数の系列 (... -2, -1, 0, 1, 2 ...) は無限に続きますが、これは数学的に完全に整合的であり、説明可能です。フィボナッチ数列のように、前の項に依存して次の項が決まる無限の系列も存在します。
哲学的な原因の連鎖も、もしその連鎖の各ステップにおける因果律が明確であれば、無限に続いたとしても、必ずしも非論理的であるとか、説明が不可能であるということにはなりません。「無限後退は説明力に欠ける」という主張は、無限集合や無限系列に対する直感的な忌避感に基づいている可能性があり、論理的な必然性に基づいているとは言えません。
現代科学からの視点
現代宇宙論は、宇宙の始まりについて様々なモデルを提案していますが、それが直接的に哲学的な「第一原因」や神の存在を証明するわけではありません。ビッグバン理論は観測可能な宇宙の始まり(特異点)を示唆しますが、それが時間や空間そのものの絶対的な始まりであるか、あるいはそれ以前に何があったのかは、現在の科学の知見では明確に答えが出ていません。
一部の理論物理学者は、宇宙が無限にサイクルを繰り返している可能性(サイクリック宇宙論)や、別の宇宙が存在する可能性(マルチバース)など、必ずしも単一の始まりを必要としないモデルを提案しています。これらの科学的なモデルは、原因の連鎖が必ずしも有限でなければならないという哲学的直感に疑問を投げかけます。
もちろん、これらの科学理論が無限後退を「証明」するわけではありませんが、「すべての物理的な原因の連鎖は有限でなければならない」という神存在証明論側の主張を、現代科学が支持しているわけではないという点は重要です。
結論:無限後退論への批判的評価
神存在証明論において重要な役割を果たす「無限後退は不可能である」という主張は、無神論や懐疑論の立場からは、論理的に説得力のある根拠に欠けていると評価できます。
- 論理学や数学において無限は確立された概念であり、無限であること自体が論理的な不可能性を意味しない。
- 証明論における「原因」概念が必ずしも明確でなく、異なる種類の原因を混同している可能性がある。
- 「第一原因」のみが原因の連鎖から免れるとするのは、最初の前提への恣意的な例外導入に見える。
- 無限後退が必ずしも説明力を欠くわけではない。
これらの批判は、神存在証明論、特に宇宙論的証明や第一原因論の根幹を揺るがすものです。「無限後退は不可能だから神がいる」という論理展開は、無限後退が不可能であることの強い論理的な証明が提示されない限り、論理的な飛躍を含んでいると言わざるを得ません。
無神論の立場からは、原因の連鎖が無限に続くと考えることも、あるいは我々の知る「原因」概念が宇宙全体や存在論的な連鎖に適用できないと考えることも、論理的な選択肢として十分に可能です。神を第一原因として導入することは、無限後退という論理的な難問を、別のより大きな(そして証明されていない)存在論的な前提に置き換えているに過ぎない、と批判的に評価することができるでしょう。
本稿が、神存在証明論における無限後退問題への理解と、それに対する論理的な批判的思考の一助となれば幸いです。