無神論者のための神証明入門

神は自らを隠しているのか?「神の隠蔽」問題と神存在証明論の限界

Tags: 神の隠蔽, 神の沈黙, 神の属性, 全能, 全知, 全善, 無神論, 懐疑論, 神存在証明, 認識論, 哲学, 神学

はじめに:無神論者・懐疑論者が抱く素朴な疑問

長年、無神論や懐疑論の立場をとられている方々の中には、「もし神が本当にいるのなら、なぜもっとはっきりと、誰にでも分かる形で姿を現さないのだろうか?」という疑問を抱かれた経験がある方も多いのではないでしょうか。全能であるなら、容易にそれが可能であるはずです。全知であるなら、多くの人々がその存在に確信を持てずに苦しんでいることを知っているはずです。そして、全善や愛であるなら、なぜ救いを求める人々や真理を探究する人々に対して、もっと明確な手がかりを与えないのでしょうか。

この問いは、単なる感情論ではなく、神の特定の属性(全能性、全知性、全善性、愛など)と、世界に見られる現実(神の存在を示す決定的な証拠がないこと、信仰の曖昧さ、宗教的信念の多様性など)との間にある論理的な緊張関係を突くものです。哲学や神学の分野では、この問題は「神の隠蔽(Hiddenness of God)」問題として真剣に議論されています。

本稿では、この「神の隠蔽」問題がどのような論点を含んでおり、それが神存在証明論に対してどのような論理的な課題を突きつけるのかを、無神論・懐疑論の立場から批判的に検討していきます。

「神の隠蔽(Hiddenness of God)」問題とは

「神の隠蔽」問題は、簡単に言えば、「もし特定の属性を持つ神が存在するなら、なぜその存在は多くの人々にとって明確に認識できない状態にあるのか?」という問いです。ここで想定される神は、しばしば伝統的な一神教における神、すなわち全能、全知、全善、そして愛であるとされる人格的な神です。

問題は、そのような神の存在を強く示唆する、あるいは確信に至らしめるような普遍的な証拠や経験が、すべての人に等しく与えられているわけではない、という事実にあります。宗教的経験は主観的であり、科学的な検証には馴染みません。奇跡とされる出来事も、他の自然的な原因で説明される可能性が常に指摘されます。神存在証明論は論理や宇宙の性質から神の存在を導こうと試みますが、それらの議論がすべての人にとって説得力を持つわけではありません。その結果、多くの人々、特に無神論者や懐疑論者にとっては、神の存在は「隠されている」ように見えます。

この「隠蔽」という状態は、神の特定の属性と矛盾するのではないか、というのが問題の本質です。

神の属性と「隠蔽」の論理的矛盾

全能性・全知性との関係

もし神が全能であるならば、望めばいつでも、どんな方法でも、すべての人に明確に自己を示すことができるはずです。稲妻で「私が神である」と空に描くことも、すべての人の心に同時に確信を生じさせることも、理論上は可能でしょう。また、全知であるならば、どの人間がどのような証拠や経験があれば神の存在を信じるようになるかを知っているはずです。

それにもかかわらず、神がそうしない、あるいはしないように見えることは、全能性や全知性と矛盾する可能性があります。もちろん、神学者からは「神は全能だが、自己制限することがある」「神は全知だが、人間の自由意志を尊重する」といった応答がなされることもあります。しかし、後者の応答は、神が明確な存在を示すことと人間の自由意志が両立しない、という前提に基づいています。本当に全能ならば、自由意志を損なうことなく、同時に自己を示すことも可能なのではないか、という反論が論理的には成り立ちます。

全善性・愛との関係

神が全善であり、人間を愛しているとされるなら、なぜ多くの人々が神の存在について確信を持てず、時に深い精神的な苦悩や道徳的な混乱を経験することを許容するのでしょうか。神の愛が真実ならば、その存在を明確に示すことで、より多くの人々が救いや平安を得られるのではないか、と考えられます。

これに対しては、「神は信仰の自由を尊重するため、強制しない」「神の愛は人間の理解を超える形で行使される」「神の隠蔽は、人間が自らの意思で神を求めるための試練である」といった神学的な応答がなされます。しかし、これらの応答に対しても、無神論・懐疑論の立場からは厳しい問いが投げかけられます。

神存在証明論は「神の隠蔽」問題にどう答えるか

神存在証明論の多くは、論理的な推論(存在論的証明、様相論理的証明など)や世界の観察可能な性質(宇宙論的証明、目的論的証明、道徳論的証明など)から神の存在を導こうとします。これらの証明論は、神の「隠蔽」という経験的な事実を直接的に論拠とするわけではありません。

むしろ、神存在証明論が有効であると仮定した場合、「神の隠蔽」は以下のいずれかの理由で問題にならない、あるいは説明可能である、という立場をとることになります。

  1. 証明論が成功している: 神存在証明論が論理的に成立するならば、神は隠れてなどおらず、理性的な探求を通じてその存在は明らかになるはずだ。信じられないのは、その証明を理解できない、あるいは受け入れようとしない人間の側の問題である。
  2. 神の目的がある: 神が自らを明確に示さないのは、人間の自由意志を守るため、真の信仰を育むため、あるいは人間には理解できない高次の目的があるためである。神存在証明論は神の存在を示すのであり、なぜ神が特定の振る舞いをするかまでを説明するものではない。

しかし、無神論・懐疑論の立場からは、これらの応答も十分な説得力を持たない場合があります。

結局のところ、「神の隠蔽」問題は、神存在証明論が依拠する純粋な論理や、特定の観点からの世界の観察だけでは捉えきれない、神と人間の関係性や、神の意図といったより広範な問題を含んでいます。それは、神の存在だけでなく、神の「性質」や「振る舞い」が、私たちが経験する世界や人間の状態と整合するのか、という根本的な問いを私たちに突きつけます。

結論:「神の隠蔽」は神存在証明論への継続的な課題

「神の隠蔽」問題は、神存在証明論に対する強力な論理的反論そのものというよりは、証明論が依拠する神概念やその限界を浮き彫りにする、認識論的・実存的な課題であると言えます。

もし神が全能で、全知で、全善で、そして人間を愛している人格的な存在であるならば、その存在が多くの人々にとって曖昧で、確信を持てない状態にあるという事実は、神のこれらの属性と論理的に矛盾する可能性があります。神学的な応答は存在しますが、それらもまた無神論・懐疑論の立場からは十分な説得力を持たず、さらなる問いを生じさせることが少なくありません。

神存在証明論が純粋な論理や世界の観察可能な性質から神の存在を導こうとする一方で、「神の隠蔽」という現実は、神の存在だけでなく、その「あり方」や「私たちとの関わり方」について、私たちの経験や理性に基づいた期待と食い違う可能性を示唆しています。これは、神の存在を論じる際に、単に「いるか、いないか」だけでなく、「もしいるとしたら、それはどのような存在で、なぜ世界はこのようになっているのか」という問いが重要であることを改めて示しています。

無神論者や懐疑論者にとって、「神の隠蔽」は、神存在の証拠が決定的に不足しているという現状を補強する論点であり、神存在証明論が克服すべき重要な課題の一つであり続けると言えるでしょう。