「すべての原因には原因がある」は本当か?神存在証明論の隠れた前提への現代哲学・科学からの批判
神存在証明論の土台にある「隠れた前提」とは
無神論や懐疑論の立場から神存在証明論を評価する際、その論理的なステップだけでなく、議論の出発点となる「前提」に注目することは非常に重要です。多くの神存在証明論は、ある特定の形而上学的な前提、つまり、経験を超えた世界の性質や構造に関する基本的な仮定の上に成り立っています。これらの前提がもし自明でなかったり、現代の知見と矛盾したりする場合、その上に構築された証明論全体の信頼性が揺らぎます。
この記事では、神存在証明論、特に宇宙論的証明などがしばしば依拠する「すべてのものには原因がある」「世界は説明可能である」といった前提に焦点を当て、それらが本当に受け入れられるべきものなのか、現代の哲学や科学からどのような批判や疑問が投げかけられているのかを論理的に考察します。
代表的な神存在証明論に見られる前提
様々な神存在証明論がありますが、ここでは特に前提が顕著なものをいくつか取り上げます。
- 宇宙論的証明(原因論): この証明論は、「この世界に存在するすべてのもの、あるいはすべての出来事には、その存在や発生の十分な原因がある」という原因律(因果律)を基本的な前提とします。そして、「原因の連鎖は無限に遡ることはできない(無限後退は不可能である)」と仮定し、最終的な原因として「第一原因」すなわち神の存在を導こうとします。ここでの前提は、(1)普遍的な原因律の妥当性と、(2)無限後退の論理的な不可能さ、の二点です。
- 目的論的証明: この証明論は、「この世界の複雑さや秩序は、あたかも知的な設計者によってデザインされたかのようだ」という観察から出発します。その背後には、「デザインが存在するには、必ずそれを行った設計者がいなければならない」という設計者仮説のような前提があります。つまり、(1)世界にデザインの痕跡があること、そして(2)デザインには必ず設計者が必要であること、が前提となっています。
- 理神論的証明: 世界の理性的な秩序や、人間が理性を獲得していることを根拠に神の存在を論じる場合、「理性的なものは理性的な源泉からしか生まれない」「世界は理性によって理解可能である」といった前提が隠されていることがあります。
これらの前提は、一見すると常識的で受け入れやすいもののように思えるかもしれません。しかし、論理的な厳密さや、現代の知識と照らし合わせると、単純には肯定できない複雑な問題を含んでいます。
前提に対する哲学的・論理的な批判
神存在証明論の前提に対しては、古くから様々な哲学者によって批判がなされてきました。
「すべての原因には原因がある」はどこまで普遍的か?
宇宙論的証明の核となる原因律は、私たちが日常経験から学ぶ強力な概念です。しかし、この法則が宇宙全体、あるいは存在そのものに対して普遍的に適用できるかどうかは、自明ではありません。
- 自己言及性の問題: 「すべてのものには原因がある」という法則自体には原因があるのでしょうか? もし原因があるなら、その原因はまた原因を持つことになり、無限後退に陥ります。もし原因がないなら、この法則自体が自己の例外となり、普遍性が崩れます。
- 無限後退の論理的な可能性: 原因の連鎖が無限に続くことは、直観に反するかもしれませんが、論理的に不可能だと断言できるでしょうか? 時間が無限に過去に続くと考えるモデルや、数学における無限級数のように、無限の連鎖が論理的に破綻しないケースも存在します。第一原因を措定することなしに、無限の連鎖を受け入れるという選択肢も、論理的には可能です。
前提は証明論自体を仮定していないか?
神存在証明論の中には、証明しようとしている結論(神の存在)を、ある形で前提としてしまっているのではないか、という批判に直面するものもあります。例えば、存在論的証明に対するカントの批判は、存在を実述語として扱うことの困難さ、すなわち「存在」を単なる概念規定に含めることによって、現実の存在を論理的に導くことはできない、という点にありました。これは、証明論が依拠する「存在」という概念に関する前提そのものへの批判と言えます。
現代科学からの視点
現代の科学的知見は、神存在証明論が依拠するいくつかの古典的な前提に対して、新たな疑問を投げかけています。
量子力学と非決定論
古典物理学の世界観では、すべての現象は厳密な因果律に従うとされていました。しかし、量子力学の標準的な解釈では、ミクロなレベルでの現象は本質的に確率的であり、決定論的な原因を持たないとされます。例えば、放射性原子の崩壊や光子の振る舞いなどは、個々の事象について「なぜ今それが発生したのか」という原因を特定することが原理的に不可能だと考えられています。
もちろん、この量子的な非決定性が宇宙全体やマクロな存在の根源にまで適用できるか、またこれが神の非存在を示すか、といった議論は複雑です。しかし、「すべての出来事には必ず決定論的な原因がある」という前提が、少なくともミクロな世界では成り立たない可能性を示唆しており、普遍的な原因律への懐疑的な視点を提供しています。
現代宇宙論と「無からの創生」
宇宙論的証明は、宇宙そのものに原因が必要だと考えます。しかし、現代宇宙論の中には、量子力学の原理を応用して、宇宙が何もない「無」の状態から量子的なゆらぎによって出現した可能性を示唆する理論(例: 無境界仮説や量子宇宙論の一部)が存在します。
これらの理論はまだ仮説の段階であり、「無」の定義や「出現」のメカニズムについても議論がありますが、少なくとも「存在するものは必ず他の原因によって存在する」という古典的な原因律の適用範囲に疑問を投げかけます。宇宙の原因を論じる際に、必ずしも第一原因としての神を措定する必要はない可能性を示唆するものです。
科学的説明と「究極の原因」
科学は現象を説明する際に、より基本的な法則や原理へと遡ります。しかし、科学的な説明は常に相対的であり、あるレベルでの説明は、より深いレベルでの別の説明を前提としています。物理学は化学現象の原因を説明し、化学は生物現象の原因を説明するといった具合です。
科学の究極的な目標がすべての現象を統一的に説明することだとしても、それは必ずしも形而上学的な「究極の原因」としての神を要求するものではありません。科学は基本的に、観測可能な現象と検証可能な仮説に基づいて進みます。神存在証明論が依拠する前提は、しばしば経験的に検証不可能であり、科学的方法の範疇を超えるものとなります。科学哲学の観点からは、検証不可能な前提の上に成り立つ理論や「証明」は、科学的な説明とは異なる性質を持つと見なされます。
まとめ:なぜ前提への批判が重要か
無神論や懐疑論の立場から神存在証明論を考察するにあたり、その論理的な飛躍や矛盾点を指摘することは有効な戦略です。しかし、より根本的なアプローチとして、証明論が依拠する「隠れた前提」そのものに批判的な光を当てることも非常に重要です。
「すべての原因には原因がある」といった一見自明に見える前提も、現代の論理学、哲学、そして科学的知見と照らし合わせると、必ずしも普遍的であったり、自明であったりするわけではないことがわかります。量子力学は決定論的な因果律に疑問を投げかけ、現代宇宙論は「無からの創生」の可能性を示唆します。
神存在証明論を評価する際は、提示された論理の妥当性だけでなく、その議論がどのような形而上学的な土台の上に立っているのかを見抜き、その前提自体が本当に受け入れられるべきものなのかを批判的に検討することが、無神論者・懐疑論者にとって不可欠なステップと言えるでしょう。神の存在を証明しようとする試みは、私たちが世界の根本的な性質について抱いている前提そのものを問い直す機会を提供してくれるのです。