「神」は定義できるのか?神存在証明論が直面する概念的な問題点
神存在証明論における「神」の定義の問題提起
神存在証明論は、理性的な根拠に基づいて神の存在を肯定しようとする哲学的試みです。歴史を通じて、さまざまな論証が提示されてきましたが、それらの多くが無神論者や懐疑論者から批判されてきました。既存の記事では、宇宙論的証明、存在論的証明、目的論的証明など、個別の証明論とその反論について解説してきました。
しかし、これらの証明論を検討する上で、根源的な問いが浮かび上がります。それは、そもそも「神」とは何を指すのか、そしてその「神」という概念は、理性的な議論や論理的な証明の対象として適切に定義されているのか、という問題です。
神存在証明論は「神が存在する」という命題の真偽を問いますが、この命題を評価するためには、まず「神」という言葉が何を意味するのかが明確である必要があります。無神論者の立場からは、「神」という概念そのものが曖昧であったり、論理的に問題を含んでいたりする場合、その存在証明の試み自体が無意味であると見なされることがあります。本記事では、神存在証明論が依拠する「神」の定義にまつわる問題点について、論理的な観点から掘り下げていきます。
証明論が用いる「神」の多様な定義
歴史上の主要な神存在証明論は、それぞれ異なる角度から「神」という概念にアプローチしています。
- 存在論的証明: これは「神」を「それより偉大であると概念されうるいかなるものも存在しないもの」と定義し、この定義から神の存在を導き出そうとします。ここでは「神」は純粋に概念的な存在として捉えられています。
- 宇宙論的証明: 世界に存在するあらゆるものの原因を遡り、「第一原因」や「必然的存在者」として神を設定します。ここでは「神」は宇宙の存在の究極的な説明原理として定義されます。
- 目的論的証明: 自然界の秩序やデザインに着目し、それを設計した者として神を定義します。ここでは「神」は宇宙の設計者や知的な創造者として捉えられます。
- 道徳論的証明: 道徳法則の存在を説明するために、その究極的な根拠として神を定義します。ここでは「神」は最高の善や道徳的な立法者として捉えられます。
これらの証明論は、それぞれ特定の属性(概念的な偉大さ、第一原因、設計者、最高の善など)を持つ存在を「神」と呼んでいます。しかし、これらの属性を持つ存在が、伝統的な有神論で信じられているような、人格を持ち、世界に介入し、祈りを聞き届けるような「神」と同一であるとは限りません。証明されたとしても、それはある特定の定義を満たす「何か」が存在するというに過ぎない可能性があります。
定義の曖昧さが招く論理的な問題点
「神」の定義の曖昧さや多様性は、神存在証明論においていくつかの深刻な論理的問題を引き起こします。
- 定義の一貫性と明確性: 証明論によっては、「神」の定義が十分に明確でなかったり、議論の途中で暗黙のうちに異なる属性が付加されたりする場合があります。また、異なる証明論が異なる定義を用いるため、どの「神」について議論しているのかが混乱することもあります。明確に定義されていない対象について、その存在を論理的に証明することは極めて困難です。
- 定義の実質性(存在論的関与): 特に存在論的証明に対する批判としてカントなどが指摘したように、概念上の定義から直接的な存在を導き出すことには論理的な飛躍があります。「最も偉大な存在」という概念は構成できても、その概念が現実世界における存在を保証するわけではありません。「存在」は述語ではない、という批判は、「神」の概念から存在を論理的に導こうとする試みの根本的な困難を示唆しています。定義はあくまで概念的なものであり、それが外部世界の実在とどのように結びつくのかが不明確です。
- 定義の適切性(属性の矛盾): 証明論が用いる「神」の定義に含まれる属性(全能、全知、全善など)が、互いに矛盾しないのか、あるいは他の既知の事実(例えば悪の存在)と矛盾しないのか、という問題も重要です。例えば、「悪の問題」は全能、全知、全善という属性を同時に持つ神の存在可能性に疑問を投げかけます。もし定義に含まれる属性が論理的に矛盾しているならば、その定義を満たす存在は論理的に不可能であり、証明する意味がありません。
- 文化・宗教による概念の多様性: 「神」という言葉は、人類の歴史や文化の中で非常に多様な意味で用いられてきました。特定の文化や宗教における「神」の概念が、証明論が扱う抽象的な定義と一致する保証はありません。証明論が、特定の文化的背景から独立した普遍的な「神」を対象としているのか、それとも特定の伝統における「神」を対象としているのか、その対象の範囲も明確にする必要があります。
現代哲学・論理学からの視点
現代の哲学、特に言語哲学や論理学の観点から見ると、「神」のような宗教的な概念を証明の対象とする試みは、さらなる困難に直面します。
- 指示対象の問題: 「神」という言葉が、特定の指示対象を持つ固有名詞なのか、あるいは特定の属性を持つ存在を指す記述(記述句)なのか、その言語学的な位置づけ自体が議論の対象となります。指示対象が明確でない場合、その存在について語ること自体が困難になります。
- 非形式的概念の形式論理への変換: 「神」のような豊かな非形式的概念を、厳密な形式論理体系の中で扱うためには、その概念を形式的に定義する必要がありますが、その過程で概念の本質的な部分が失われたり、誤った前提が導入されたりする可能性があります。
- 形而上学的前提への依存: 多くの神存在証明論は、特定の形而上学的な前提(例えば、宇宙には第一原因が必要である、目的には設計者が必要であるなど)に強く依存しています。これらの前提が無神論者や懐疑論者にとって受け入れがたいものである場合、証明論全体も受け入れられなくなります。これらの前提自体が、「神」の存在を暗黙のうちに仮定しているのではないか、という批判も存在します。
無神論・懐疑論からの評価
無神論や懐疑論の立場からは、神存在証明論はしばしば、証明すべき対象である「神」の定義そのものが不明確であるか、あるいは証明論にとって都合の良いように恣意的に定義されていると見なされます。
もし「神」が明確に定義されていないならば、その存在を証明しようとする行為は、「ウバー・ルバーが存在する」と証明しようとするのと同程度に無意味に映るかもしれません。「ウバー・ルバー」が何であるか定義されていない以上、その存在について論じることはできません。
また、たとえ証明論が特定の定義を満たす存在を論理的に導き出したとしても、それが無神論者が否定する伝統的な意味での「神」(例えば、世界を創造し、人間に干渉する人格神)である保証はありません。ある哲学的議論から導かれる「必然的存在者」が、果たして旧約聖書のヤハウェや新約聖書の父なる神と同一視できるのか、という疑問は、証明論の射程範囲に関する重要な論点です。
最も基本的な概念である「神」の定義に論理的な問題や曖昧さが存在するならば、その上にどんなに精緻な論理体系を築き上げても、その全体が揺らいでしまいます。論理的な議論を進める上では、「何を議論しているのか」を厳密かつ明確に定めることが、何よりもまず不可欠なのです。
まとめ:概念の明確化こそが議論の出発点
神存在証明論は、理性的な探求として興味深い試みですが、その根幹には「神」という概念の定義に関する本質的な問題が存在します。様々な証明論が異なる定義を用い、その定義自体が曖昧であったり、論理的な問題を孕んでいたりする可能性があります。
無神論者や懐疑論者が神存在証明論を真摯に検討するためには、まず「神」が何を意味するのか、そして証明論が依拠する定義が論理的に一貫しており、かつ証明の対象として適切であるのかを、厳密に吟味する必要があります。概念の明確化こそが、神の存在に関するいかなる理性的議論においても、出発点となるべきなのです。
神存在証明論に対する論理的な批判は多岐にわたりますが、「神」という概念そのものにメスを入れる視点は、議論の深淵に迫る上で不可欠と言えるでしょう。