無神論者のための神証明入門

神の全知性は論理的に可能か?未来予知と自由意志のパラドックス

Tags: 神の全知性, 自由意志, 論理学, 哲学, 神学

はじめに:神の全知性という概念

神存在証明論や神学的な議論において、「全能」「全善」と並んで重要な神の属性とされるのが「全知」です。神が全知であるとは、一般的に、神が全ての真である命題を知っており、かつ全ての偽である命題を知らない、つまり「全てを知っている」という意味で理解されます。この能力は、過去、現在に関する知識だけでなく、未来に関する完全な知識も含むと見なされることが多いです。

しかし、この「全知性」という概念、特に未来に関する全知性は、論理的に深く探求すると、いくつかの問題点を抱えているように見えます。特に、人間の「自由意志」との関係においては、古くから様々なパラドックスが指摘されてきました。

この記事では、神の全知性という概念の定義を確認し、そこから派生する論理的な問題点、特に未来予知と自由意志の衝突に焦点を当てて解説します。そして、それに対する神学的な応答と、無神論あるいは懐疑論の立場からの批判的視点を提供します。感情論ではなく、あくまで論理的な可能性と概念的な整合性という観点から議論を進めていきます。

神の全知性の定義と論理的射程

伝統的な神学において、神の全知性はしばしば以下のように定義されます。

特に、この「時間超越的な全知性」あるいは未来に関する完全な知識が議論の焦点となります。もし神が未来の全ての出来事を、それが起こる前に正確に知っているとすれば、それはどのような論理的帰結をもたらすのでしょうか。

論理学の観点から見ると、「知っている」という行為は、対象となる命題が真であることを前提とします。例えば、「私は今、目の前にリンゴがあることを知っている」という命題が真であるためには、「私の目の前にリンゴがある」という命題も真である必要があります。神が未来の出来事Xを知っているならば、未来の出来事Xは必ず起こる、ということになります。なぜなら、もしXが起こらないとしたら、神はXが起こるという間違ったことを知っていることになり、それは神が全知であるという定義に反するからです。

未来予知と自由意志のパラドックス

ここで、人間の自由意志という概念が登場すると、神の全知性は深刻な論理的緊張関係に直面します。この問題は「全知のパラドックス」あるいは「神学的決定論」の問題として知られています。

パラドックスの構造は以下の通りです。

  1. 神は全知である。
  2. 全知である神は、未来の全ての出来事を、それが起こる前に完全に知っている。例えば、あなたが明日コーヒーを飲むということを、神は今、確実に知っているとする。
  3. 神があなたが明日コーヒーを飲むことを知っているという事実は、論理的に、あなたが明日コーヒーを飲むことが必然であることを意味する。なぜなら、もしあなたが明日コーヒーを飲まないという選択をする可能性が少しでもあるなら、神はあなたの未来を「確実に知っている」とは言えないからである。
  4. もしあなたが明日コーヒーを飲むことが必然であるならば、あなたは明日、コーヒーを飲む以外の行動(例えば紅茶を飲むこと)を自由に選択することはできない。
  5. したがって、神の全知性(特に未来に関する知識)は、人間の自由意志と両立しない。もし神が全知ならば、人間は自由ではない。もし人間が自由ならば、神は全知ではない。

このパラドックスは、神の全知性と人間の自由意志という、神学・哲学における二つの重要な概念が、どうやら同時に成り立ち得ないのではないか、という問いを投げかけます。

神学からの応答:両立可能性の主張

このパラドックスに対して、伝統的な神学や哲学からは様々な応答がなされてきました。主なものは、全知性と自由意志は実は両立可能である(両立主義、コンパチビリタリアニズム)と主張するものです。

  1. 時間超越的な知の見方: 神は時間を超越した存在であり、神の知識は時間内の出来事を順序立てて把握する我々の知識とは質的に異なります。神は、未来をあたかも「今」見ているかのように知っているのであり、それは未来の出来事が確定しているから知れるのではなく、神が時間を超えているからこそ「見えている」のだ、と説明されることがあります。この視点では、神の知は原因ではなく、単なる「観測」のようなものだとされます。
  2. 知識と原因の区別: 神が未来の出来事を知っていることは、その出来事が起こる「原因」とは異なります。神が知っているからといって、その出来事が必然になるわけではなく、それは自由な選択の結果として起こる出来事を、神がたまたま知っているだけだ、という主張です。例えば、友人が明日何をするかを知っていても、その知識自体が友人の行動を必然にするわけではない、という類比が用いられます。ただし、神の知識は間違いがないという点が決定的に異なります。
  3. 様相論理による解決: 現代の様相論理を用いた議論では、神は現実世界の未来を知っているのではなく、「可能な世界全て」における出来事を知っているのだ、といったより精緻な議論が展開されることもあります。あるいは、自由意志とは別の種類の必然性であり、神の全知性による必然性とは両立する、といった議論もあります。

これらの応答は、神の全知性と人間の自由意志を両立させようとする試みであり、それぞれに論理的な詳細化がなされています。

無神論・懐疑論からの論理的反論・評価

しかし、これらの神学的な応答に対しても、無神論者や懐疑論者からは多くの論理的な疑問や反論が提示されています。

  1. 時間超越的な知の不明瞭さ: 神の時間超越的な知という概念は、人間の理解の枠組み(時間内での因果関係や知識の獲得)を大きく超えています。この概念を持ち出すことは、問題を解決する説明というよりも、説明を放棄しているに等しいのではないか、という批判があります。時間的な順序や因果関係なしに「知っている」ということが、論理的に意味をなすのか自体が問われます。
  2. 知識の性質への疑問: 知識とは通常、「真であり、信じられており、正当化されている信念」と定義されます。しかし、まだ起こっていない未来の出来事に対する「知識」は、どのようにして「正当化」されるのでしょうか? 未来は未確定であり、それゆえ真偽が確定していない出来事を「知っている」という表現自体が、論理的に矛盾しているのではないか、という根本的な問いかけがあります。
  3. 「知っていることと原因は別」への反論: 神学からの応答では、神の知は原因ではないから自由意志と両立すると主張されます。しかし、神が「Aが起こることを確実に知っている」という命題が真であるならば、それは論理的に「Aが起こることは避けられない」という結論を導出します。ここで問題となっているのは、神の知が直接的な原因となるかどうかではなく、神の知識という概念そのものが、未来の「必然性」を含意してしまう点にある、という批判があります。知識の infallibility(間違いのなさ)が、未来のcontingency(偶然性)と衝突するのです。
  4. 概念的な自己矛盾の指摘: そもそも、「未確定なものを確定的に知る」という概念自体が論理的に成立しないのではないか、という批判があります。未来は定義上、まだ開かれており、自由な選択によって分岐する可能性があるものです。そのような性質を持つ未来を「確定的に、間違いなく知っている」という概念は、まるで「四角い円」のような自己矛盾を含んでいるのではないか、と指摘されるのです。もし未来が本当に開かれて自由な選択に委ねられているなら、神ですらそれを「知る」ことはできないはずです。

結論:全知性は論理的なハードルを抱える

神の全知性、特に未来に関する知識は、神学的な議論において非常に興味深く、同時に深刻な論理的課題を提起します。神学的な応答は、神の知の性質を我々の経験を超えたものとして説明することで、全知性と自由意志の両立を図ろうとします。

しかし、無神論や懐疑論の立場から、これらの応答は概念的な不明瞭さを抱えているか、あるいは根本的な論理的矛盾を回避できていないと見なされることが多いです。特に、「未確定な未来を確定的に知る」という概念自体が、自由意志だけでなく、知識や未来といった概念の通常の理解と矛盾するのではないか、という批判は根深いものがあります。

したがって、無神論者にとって、神の全知性という概念は、神の存在を受け入れる上での大きな論理的なハードルの一つとなります。神の全知性が論理的に成立しうるのか、そしてそれが人間の自由とどう関わるのかという問いは、神存在証明を評価する上で、引き続き重要な検討課題であり続けるでしょう。