神の全能性は論理的に可能か?パラドックスから見る神概念の限界
はじめに:神概念の論理的厳密性を問う視点
神存在証明論に関心をお持ちの無神論者・懐疑論者の皆様にとって、様々な証明論の論理構造や前提条件に対する批判は重要な関心事でしょう。宇宙論的証明、存在論的証明、目的論的証明など、それぞれに興味深い議論が存在します。しかし、議論を進めるにあたり、そもそも証明の対象である「神」という概念そのものが、論理的に整合的であるかという問いもまた、極めて重要です。
伝統的な神学や哲学における神は、しばしば全能、全知、遍在といった属性を持つとされます。これらの属性の中でも、「全能性(Omnipotence)」は特に直感的でありながら、深く掘り下げると論理的な難問を提起することが知られています。今回は、この神の全能性が抱える論理的な問題、特に古くから議論されてきた「全能性のパラドックス」に焦点を当て、それが神存在証明論の評価にどのような示唆を与えるのかを論理的に考察していきます。
神の全能性とは何か?伝統的な定義
伝統的な神学において、神の全能性は「論理的に可能なあらゆることを行う能力」と定義されることが多いです。これは非常に強力な能力であり、神は物理法則や自然の限界、あるいは人間の能力の限界を超えて、望むことは何でも実現できる、と考えられます。
この定義は一見するとシンプルで分かりやすいように思えます。しかし、「論理的に可能なあらゆること」という限定に注目する必要があります。つまり、伝統的な定義でさえ、神の全能性が論理法則から完全に独立しているわけではないことを示唆しているのです。
全能性のパラドックス:「持ち上げられない石」の問い
神の全能性に関する最も有名な論理的難問の一つに、「全能者自身が持ち上げられないほど重い石を、全能者は作れるか?」というパラドックスがあります。
この問いは、以下のようなジレンマを提起します。
- 神がそのような石を作れる場合: 神は自身が持ち上げられない石を作ることになります。しかし、もし神がその石を持ち上げられないなら、神は「何でも持ち上げられる」わけではないことになり、全能ではありません。
- 神がそのような石を作れない場合: 神はそのような石を作る能力がないことになります。これもまた、「何でも作れる」わけではないことを意味し、全能ではありません。
どちらの場合でも、結論として神は全能ではない、ということになってしまうのです。これは、全能であるはずの存在が、自身の全能性ゆえに自己矛盾に陥る可能性を示唆しています。
パラドックスの論理的分析:論理法則と神の力
このパラドックスは、「論理的に不可能なこと」と「神の力」の関係を問い直すものです。伝統的な全能性の定義に従えば、神は「論理的に可能なこと」だけを行えることになります。
- 「全能者自身が持ち上げられないほど重い石を作る」という行為は、それ自体が論理的に矛盾した要求である、と解釈できます。なぜなら、「全能者」という概念は「何でも持ち上げられる者」を含むからです。「何でも持ち上げられる者が、自分自身が持ち上げられないものを作る」というのは、「四角い円」を作ることを要求するのと同じように、概念上の矛盾を含んでいると考えられます。
もし神が論理的に不可能なことを行う力を持たないとするなら、それは「全能性のパラドックス」が示唆するような能力の限界ではなく、単に論理的な整合性の問題である、と擁護することは可能です。しかし、この擁護は以下の新たな問いを生じさせます。
- 神は論理法則に拘束されるのか? もし神の力が論理的に可能な範囲に限られるのであれば、神は論理法則に従属している、あるいは論理法則が神の力よりも上位にある、ということにならないでしょうか? 伝統的な神概念では、神は森羅万象の創造者であり、あらゆるものの根源であるとされます。その神が、論理法則という何らかの原理に拘束されるというのは、神の絶対性や超越性といった属性と矛盾するのではないか、という批判が起こりえます。
- 「論理的に可能」という限定は、全能性を本質的に損なうのか? もし神が論理的に不可能なことはできないとしても、それは「できない」というよりは、そもそも「意味をなさない要求であるから対象にならない」のだ、と考えることもできます。しかし、この解釈は、「あらゆること」という全能性の言葉の響きから連想される絶対的な力とは異なる、より限定された能力像を提示することになります。
神学からの応答と哲学的な再批判
全能性のパラドックスに対し、神学や哲学からは様々な応答がなされてきました。
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応答例1:「神の全能性は論理的な矛盾を含まないことに限定される」 最も一般的な応答は、神の全能性は論理的に可能な範囲でのみ発揮される、というものです。神は「四角い円を作る」ことも、「全能者自身が持ち上げられない石を作る」こともできませんが、それは神に能力がないからではなく、これらの要求が論理的に無意味だからである、と説明されます。
- 再批判: しかし、これは文字通りの「何でもできる」という全能性の定義を悄悄と変更しているのではないか、という批判が可能です。また、もし神が論理法則に拘束されるなら、論理法則自体は神よりも上位に存在するのか、あるいは論理法則は神が創造したものなのか、といった問いが生まれます。もし神が論理法則を創造したのなら、なぜ神は自身の創造物である論理法則に拘束されるのか、という新たなパラドックスが生じます。
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応答例2:「パラドックスは不適切な人間的な理解に基づく」 神の力は人間の論理や理解を超越しており、パラドックスは人間の限られた思考で神を捉えようとする試みから生じる誤謬である、と主張されることもあります。
- 再批判: この立場は、議論を非論理的な領域に持ち込むものであり、論理的思考を重視する無神論者や懐疑論者にとっては受け入れがたいでしょう。論理的な整合性を問う議論の土俵から降りてしまうため、証明論として成立させることは困難になります。
神存在証明論への示唆
全能性のパラドックスを含む、神概念の論理的な整合性に関する問題は、神存在証明論を評価する上で無視できない重要な示唆を与えます。
- 証明の前提の不安定性: 神存在証明論は、「神という存在者がいる」という結論を導こうとしますが、その前提となる「神」という概念自体が論理的な矛盾を孕んでいる可能性が提起されます。もし証明の対象である概念が論理的に整合しないなら、その概念の存在を論理的に証明しようとする試みは、根本的に成り立たなくなる可能性があります。
- 論理的証明の限界: 特に、存在論的証明のように、神の概念定義そのものから存在を導き出そうとする証明論は、神概念の論理的整合性に強く依存します。全能性のような属性に論理的な問題がある場合、そうした証明論の前提は揺らぎます。
- 属性と存在の分離: たとえ神がある種の存在者として存在するとしても、その存在者が伝統的な意味での全能、全知、全善といった属性を矛盾なく同時に持ちうるのか、という問いは別個に評価される必要があります。神の存在を証明できたとしても、それが「全能かつ全知かつ全善の神」であることの証明には直結しないかもしれません。
結論:概念の論理的整合性が議論の出発点
全能性のパラドックスは、神存在証明論に対する単なるトリビアや言葉遊びではありません。これは、神という概念そのものが、人間の論理的な枠組みの中で整合的に捉えられるのか、という根源的な問いを投げかけます。
無神論者や懐疑論者にとって、神存在証明論を評価する際は、提示される論証のステップや前提だけでなく、「神」という概念そのものの論理的な定義と整合性にも注意を払うことが重要です。もしその概念自体に論理的な問題があるなら、いかなる証明論もその出発点において困難を抱えることになります。感情論ではなく、概念の論理的厳密性を求める姿勢こそが、神存在証明論を批判的に検証するための確かな一歩となるのです。